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読むことの力、どう読むか。(理系でも文系でも大切な読む力)

私はもともと物理学科で、いまは数学、物理、現代文までは教えたりしますが、その私が化学の質問を受けることがまれにあります。
 化学は基本的にできません。けれども経験的に言って…どうかな、たぶん80%くらい解決してしまいます。これは1年や2年生だけではありません。受験生でも、です。
 なぜだと思いますか?
 それどころか生物だってそうなることがあります。まったく未知の問題の質問を解決することもありました。
 なぜだと思いますか?

 また現代文。
 私は多分、センターの評論文は、本試・追試あわせて、どうだろう?15年分くらいに1個くらいの間違いだと思います。
 そのとき、例えば傍線部や設問文、選択肢にどう向かっていっているのかわかりますか?
 
 化学や生物の質問について、その教科の内容を説明して解決することはありません。できることがないわけではありませんが、そうはしません。

 ただ生徒にきちんと読ませる。それだけです。
 きちんと読ませる。理科の文章を。どのように?

 主節と条件節をきちんと区別させる。その各々の主語・述語・目的語を確認させる。指示語の中身を確認させる。接続関係を確認させる。
 さらに例えば問題文や解答に書いてある言葉の説明を聞いてみる。ヘンリーの法則って何だっけ? 減数分裂って何だっけ?とか。減数分裂を知らなければその場で調べさせます。
 ほとんどの場合、これで解決します。私が教えた内容は何もありません。それでも解決します。それも少なくない割合で解決してしまいます。


 現代文で何をしているのか。
 当然全体の論理構成、その段落内の論理展開、設問部前後の論理を把握することは大切です。けれどもまずやるのは、傍線部を含む一文を丁寧に分析します。

 一文の分析を丁寧にやる。どういうように?
 主節と従属節をきちんと区別する。各々の主語・述語・目的語を確認する。指示語の中身をはっきりさせる。接続関係を正確に捉える。

 以上です。まずは。やっていることは、化学・生物も現代文も何も変わらない。ようするにキチンと読むこと。それだけです。


 いったいどれほどの生徒が日本語で書かれている設問部の、あるいは選択肢の、主語や述語、指示語の中身についてキチンと把握しているのか。非常に少ない。極めて少ない。そうですね、まぁ、20人、30人に一人かな?もっと少ないかな? いままで個別で指導した生徒、例えば京大法学部や阪大外国語学部にいった生徒がいました。このあたりはそれなりの国語力があるはずの生徒ですが、そういう生徒にしてもなお、上記のようなことにかなりの問題がありました。

 文章というものの基本は文です。文というのはセンテンスです。そのセンテンスの集合が段落になりますが、私は基本は文章と文が最も骨格的な構成要素だと思っています。段落はそれに比べると低い位置にあります。書き手によって段落の区切り方はかなり違うし、法則性があるわけではありません。しかしセンテンスについては従うべき文法というものがあります。
 その一つ一つのセンテンスが把握できないでどうして文章が読めるでしょうか?

 そしてセンテンス内の節と節の関係、センテンス相互の関係。その接続関係がほぼ論理関係になります。

 英語でも日本語でも同じなのです。
 ただ英語ではS,Vとかをそれとして考えなければいけないのだとしたら、トレーニングの大きな不足です。それが無意識にでもできるようにならないといけないのは間違いないことです。けれどもそれは意識しないでもできるということであって、SとかVとかを気にしないということではありません。
 逆に日本語の場合、慣れすぎて、もっともセンテンスの主要な構成要素についての認識がデタラメなものになっています。

 例えば長岡亮介氏の『総合的研究』を使っているのだから、数学の解答でキチンとセンテンスを抑えてみてください。びっくりするくらい適当に読んでいたことがわかるかもしれません。条件節と主節を切り離して、主節だけを解釈していた、主語と述語の対応関係を間違えていた…ということが多々あるはずです。だって、君、問題を最後まで読まないことがよくあるでしょう? 日本語の述語は最後にあるのですよ。問題を最後の一言まで読まないことがあるのだから、一文の主語・述語をキチンと読んでいるわけがないのですよ。



 でもこうすると極端に読むのが遅くなります。その弊害はあります。
 もっとも、その弊害は、多分、想像しているように「時間内に解けない」ということではありません。それは受験にとっては大切なことですが、それほど本質的な問題ではありません。本当に大切なことは、極端にゆっくり読むことと、高速で全体を読み下すときとでは「景色」が違うことです。例えば時速60km/hで走る自動車のなかから見える光景。その同じ道をゆっくり歩きながら見える光景。それは明らかに違います。そのどちらかが本物でどちらかが偽物だということではありません。次元の異なる二つの景色なのです。
 細かく視点を動かしていると、いわゆる「木を見て森をみず」ということになります。全体の構造は見えなくなります。逆に高速で読み下していると細部はほとんど読めない。
 では、どうするのか?いったいどういう早さで読むべきなのか。
 これは意外に大切なことなのです。
 けれどもとりあえずの解決は簡単なことです。

 じっくり、ゆっくり読む。しかるのちに全体を一気に読み下す。
 まぁ感覚的にいえばセンター試験の評論文を30分とかそれ以上とかかけてじっくり読む。そしてしかるのちに5分で読む。2,3回高速で読み下す。またゆっくり読む。そうして両方する。簡単な事です。
 その次は、それなりにじっくり読みながら、さっと前後を見て、また細部にもどる。それで一回で内容を把握できるようにする。
 まぁトレーニングですね。
 ただ、私はその際の基本は、じっくり・ゆっくりの方だと思っています。いわゆる精読です。例えば研究者がある文献について新しい斬新な解釈を打ちだすことがあります。それまでのある文献の読み方、読まれ方を覆すような新しい読み方を提出することがあります。こういうときのきっかけになるのはいろいろですが、ある細部の読み込みからつかみとったことをテコにして全体の読解を覆す。そういうことが少なくありません。「神は細部に宿り給う」という言葉がありますが、大切なことだと思います。細部から全体へ、です。
 こうしたことはまだ早いですか? 研究者ではないから、と思いますか?
 そうではないですよ。
 ある文章が曖昧にしか読めない。その場合、ある部分が読み解けることで全体像がパッと明らかになる、一挙に視界がひらける瞬間のようなことがある。それはいまの高校生や受験生のレベルでも大いにあることです。だからまずは細部をしっかり把握する。そして全体を読み下す。また細部にもどる。また全体を読み下す。その場合、スピードを意識的に変えてください。30分と5分。そのくらくは違ったほういい。視界を、景色を変えてください。それは大切なことです。


 あと二つ。ついでに。
 一つ目。読めない場合によく起こっていることがあります。かなり多いと思う。
 筆者と「呼吸があっていない」とでも言うべきことです。あるいは「リズムがずれている」と言ってもいいかもしれない。
 もし筆者が目の前にいて同じ内容のことを話をしたとしましょう。その場合、どうするだろうか?
 どうしても伝えたいところは声が大きくなるかもしれない。2,3回繰り返すかもしれない。ゆっくりと話しもするでしょう。身振りだって大きくなる、目だって大きく見開かれる。そうやって重要なところ、ポイントになるところ、どうしても伝えておきたいところを強調するわけですね。それに対して、それほど重要性がないところはさっと事務的に話すだけで終わったり、早口になったり、声だって小さくなったりするでしょう。
 聞き手は知らず知らずのうちにその筆者と呼吸をあわせて聞きます。そして言いたいことを掴みます。だから言葉は上手く言えなくても、全身からメッセージを受けることだってあるわけです。むしろ日常的にはその方が多いでしょう。誰もが論理的に話を組み立てているわけではないですから。

 けれども文章の場合、筆者は目の前にいません。書き手にとってはある種のもどかしさがあるでしょう。そこで筆者はいろいろな工夫をします。繰り返す、ゴチックにする、傍点を振る、ラインを入れる、「」で括ってみる。あるいは明示的に「もっとも重要な事は」とか書いたりする。修辞法を駆使して強調する。1行、2行だけで独立した段落にする。さまざまな工夫をします。それはいわば文章の身振りなのです。そこに筆者の息遣いがあります。
 息遣いを感じ取ることです。聞き取ることです。これは多分、とても大切なことです。
 どんな文章でも、その力点の置き方、強調点の置き方を変えてしまうと内容が大なり小なり変わってしまいます。場合によってはまったく違う内容にだってなってしまいます。例えば、必死に声を大にして訴えたところを無視して、さっと簡単に「一応触れておく」みたいなところを取り出してそれについてアレコレいうのを「重箱の隅をつつく」とか、場合によっては「あげ足を取る」ということがありますが、大抵の場合、筆者の、話者の言いたいこととは違う内容として把握されていることが多いです。
 だから筆者が必死に強調しているところは、筆者に代わって力を込めて読む。ゆっくり読む。腰を落として読む。そんな感じは大切です。私は、そうしたところで速度を落とすためにラインを引くのではなく、傍点を打ちます。一言、一言、それとして意識にしっかり刻みこむために、速度を落とすために、さっと前に行ってしまおうとする自分の視点をそこに留めるために、そういうつもりで傍点をうちます。
 もし上手くできないなら、一度、音読をしてみてください。そして筆者に成り代わって抑揚をつけ、リズムを調整し、場合によってはくりかえし、声に出して読んでみてください。目の前の仮想した聴衆に向けて訴えてみてください。そうすると少し掴めるものがあるかもしれない。それからもう一度、全体を読んでみてください。また少し文章にみえる景色がかわるかもしれない。
 私もかなり厄介な文章を読んでいるとき、ブツブツ言いながら読んでいることがあります。強調点を強調する。あるいは主語、述語、目的語を意識的に明示的に強調しながらブツブツいいながらよむ。そうするとなるほど!とわかることもあります。まぁダメなこともあります。

 二つ目。
 これはちょっと気になっていることです。
 読むことが下手な人は往々にして解釈し過ぎます。一定の解釈は必要ですが…
 特にわかりにくいところになると解釈モード発動みたいになる人が多い。わかりにくいところを把握するために必要なことは、第一にはその文脈の中で筆者がどのように述べているのか、の正確な把握です。AのことをBと言っている。なぜだろう?それは筆者に聞くべきことです。つまりは文章に聞くべきことです。けれども、自分なりにいろいろな解釈を始める。確かにある程度必要なのですが、正確に理解するために必要な解釈とは異質な感じを受ける「解釈」をする人がいます。その「異質な解釈」というのは、多分、その人が「この人はなぜこういっているのだろう?何を言おうとしているのだろう?」ということよりも、自分の世界のなかにその文/文章の部分を引きずり込んで「納得しよう」とする働きのように思えます。その瞬間、その文/文章はもともとおかれていた文脈から離れてしまって別の意味を持たされてしまいます。ここで読解として破綻します。
 ハッキリさせておいたほうがいいのは、永久に納得出来ないことが書かれていることもあれば、10年後にはじめて納得できることもあるということです。その場でいつも納得できるわけではないのです。あるいは理解できるわけではもないのです。だから「自分の納得のために」「自分が理解できるように」解釈してはいけない、変容させてはいけない。
 だから文章のなかに「これはなんだろう?」と謎が残って宙ぶらりんになったままの部分が残ることがあります。あえていえば、ほとんどの文章にはそうした部分が残ります。筆者だってうまく説明できないことだってあります。けれどもそう書くしかないことだってある。例えば、ある日、空を見ていたら不意に涙がこぼれた。それを無理やり理由をつけて読み手が自分に納得させてはいけない。
 大切なことは、宙ぶらりんのまま、それを忘れずに、しかしそこで足踏みをし続けないようにして読み切ることだと思います。読みきって、また読んで、3回めに宙ぶらりんの部分について深く理解できるかもしれない。気持ち悪いし、もどかしい。けれどもいまも自分には読みきることができない文章は山のようにあるのです。いぜんに私もある人の50ページくらいの文章を半年かけて読みました。けれどもまだ宙ぶらりんの部分がたくさんあります。またそのうちに読みます。いまは、その文章が読めるようになるために、回り道をしていると思っています。

 まぁ、この辺りはなかなか微妙なところですね。でも本質的にかなり大切なことのように思います。
高木
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ある生徒へのメールから

以下は、ある生徒へのメールです。勉強することについてのヒントになればと思い、アップします。

 模試、おつかれ。
 予め言っておきますが、これは嫌味でも皮肉でもありません。

 「物理が物理としてなってないと恐ろしいくらい実感しました
恐怖に近いものはあります。」

 これを感じたことが今回の模試の最大の成果です。もう一度言いますが、皮肉でもなんでもないですよ。

 もしこれを感じなければ、あなたの勉強はこれまでの延長線上で、ある程度改良する、というものになるでしょう。けれども、こう感じてしまったら、これまでの勉強とはまったく違うことをやらないといけないのだ、ということにイヤでもなるでしょう。
 だからこういう痛みは和らげてはいけない。曖昧にしてはいけない。糊塗してはいけない。日常の学習の細部に至るまで、隅から隅まで見直し、洗いなおし、作りなおすことです。その出発点になるかもしれないことなのです。もしこれを少しでも曖昧にしたり、なにか弁解したりしたら、その分だけ学習は変わらず、またおないことをくりかえします。

 物理を作りなおす。たぶん、それは数学で少しつかんだけれども、その数学も含めて、英語なども同じことだと思います。

 カギの一つは体系性だと思います。物理、高校でやっている古典物理は、おそらく様々な学問の中でももっとも強く体系性をもったものだと思います。
 この間、定義や公式の導出ということもその一部ですが、体系性というのは、その学問全体の論理性です。一つ一つの定義や公式の導出が、柱だったり屋根だったりするとしたら、全体の体系性とは一軒の家です。いくら柱や屋根に使う瓦を吟味して、しっかりしたものにしても、その組立がでたらめだったら粗悪品で建てた家以下のものしかなりません。というよりも家になりません。バレエでいえば、個々のポーズをキチンとしっかり仕上げても、その流れが崩れてしまったら踊りになりません。そういうものです。

 では「体系性」(体系性というとなかなか大仰なものに聞こえますが)はどうすれば作り出せるのか。それは言ってみれば、順番であり、あるべきところにあるべきものごとが収められているということだと思います。だから順番に最初から説明できるようにすることは大切なのです。つまり体系性は論理性の上になりたっているし、その論理の中ではとくに因果関係が大切です。
だから、つねになぜ?と問うことでもあり、で、どうなる?と問うことでもあると思います。
数学では一つ、二つの数少ない事柄から、それを演繹して多くのことを導き出し、応用できるような、その端緒に立ったと思いますが、そういうことです。

 普通はここまでやりませんが、君の場合、いったんは著しくこの点が損なわれてしまったので、やっぱり意識的に作り上げないといけないのだろうと思います。

 もう一つは、その「体系性」に立った思考に慣れること。その思考を自分の思考とすることです。なぜ物理が出来る人は、いつも物理ができるのか。簡単です。物理現象を物理的に考えているからです。別言すれば、物理に即して考えているからです。その考えるということ事態が物理学的に行われていらです。
 それは別段難しいことではありません。学者にだけ求められることでもありません。例えば(2+3+128+98+237)×11と(98999-549)では後者のほうが大きい。当然のことですね。別に足し算なんかしないでも直感的にわかります。逆に細かい議論をすればよくわからなくなるかもしません。せいぜい何千という大きさのものと何万というものですから比較になりません。でもそれは数学をやっていないとわからないことなのです。たぶん。それは論理だてて行ってきた経験が、一つの直感にまでなった状態なのだと思います。つまり、習いはじめのとき、自分の外側にあった論理が、いつのまにか自分の内部のものになっているわけです。

 体系が自分の外部にだけある状態ではまだ不十分です。けれども、その道を何度も行き来しているあいだに、その論理そのものが自分のものになっていく。何度も自分が行き来するのですよ。読むだけでは外側にあるだけです。読んで反芻し、自分でその筋道を再現し、たどり直してみる。そういうことを繰り返せばたぶん、その論理は君のなかに根付いてきます。そうしたら高校のレベルでいえば、ほぼ完成です。

 何かヒントになりますか?
 いままで言って来たこと以上でも以下でもないかもしれませんが、まぁ一度、キチンとまとめたほういいかなと思ったので、返信しました。

 もう一度言いますが、今回の痛みは、それが鋭ければ鋭いほど、今後の出発点になりうるものなのです。
高木

学習のあり方

 さまざまなことで何かを身につけるにはやってはいけないようなタイプのことがある。スポーツでも、音楽、例えばピアノだとかでも、おかしなクセを付けてしまったのを修正することよりも、まっさらの状態からキチンと練習するほうが早く上達することは珍しくないのだろうと思う。

 実は学習もそうなのだとつくづく思う。

 この教室に魔法のような方法や内容があるわけではない。ただ当たり前のことを当たり前のようにやり続ける以外に身につけることはできないことを、妥協せずにそう言い続けるしかない。
 気をつけて欲しい。
 学習するほどに、その学習の対象の何かを壊してしまっていることだってある。学習するほどにマイナスを積み重ねていることだってある。

 生徒には良く言うけれども、数学、物理、化学…に、数学、物理、化学以外の何か特別の受験用の論理や知識があるわけではない。「問題を解くための数学」というようなものはどこにもない。これは全部の教科に言えることだけれども、ただ受験は時間と内容に一定の制約があるだけで、別の法則があるわけではない。だから数学ができるようになりたければ、数学の勉強をするしかないのに、数学とは違う「受験数学」というものがどこかにあると思っている生徒があまりにも多い。そういうものを標榜している人たちがあまりにも多い。その「受験の何とか」というものが、本来のあり方を壊し続けているのだということを肝に銘じて欲しい。
 3年生は、修正が必要なら、これまでの勉強で壊してきてしまったものとたたかわなくてはいけないし、1,2年生は、「数学なんか理解しなくても、問題が解ければいい」という発想には絶対に陥らないで欲しい。

学習の中での「発見」 ファインマン『物理法則はいかにして発見された』から

 先日のニュートリノが光速を超えたということで文章を書く時に、ノーベル物理学賞をとったファインマンの本(『物理法則はいかにして発見されたか』岩波現代文庫)からの引用した。その時、次のような文章を見つけた。
 
 物理法則が発見されるプロセスについての考察だけれども、それは物理学の研究にとどまらず、ものごとを学び取ることの、受験勉強も含めた学習一般についての示唆を読みとることができる。
 
 
「量子力学は2つの独立な仕方で発見されました。これはひとつの教訓になります。こんども、いや、前にもましてというべきでしょうが、実験によってものすごい数のパラドックスが発見されました。既知の法則からはどんなことをしても絶対に説明できない現象がたくさん発見されたのです。知識が不完全だったのではありません。完全すぎたのです。これはこうなるはずだと予言ができる。しかし実際はそうならなかった。」(p250)
 ここからこの「既知の法則」と実験結果の矛盾を解決するものとしてシュレーディンガーとハイゼンベルクの新しい「二つの哲学的な方法が結局は同一の発見(=量子力学の発見)に導いたのです。」(p250)
 
「一つの理論をめぐる哲学なり概念なりが、理論の小さな変更によってひどく変わることがあるという点です。たとえばニュートンの時間・空間の概念ですが、これは非常によく実験にあっておりました。ところが水星の軌道をほんのわずか直して正しい答えにするために、理論はその性格からして大きく変更されねばならなかったのです。その理由はといえば、ニュートンの理論がとても単純かつ完全であって、明確な結果を生み出すものだったからであります。ほんのちょっとだけ異なった答えをだすためには、完全に異なった理論が必要であった。新しい法則を始めるには、完全なものに傷をつけるのではいけない。別に一つ完全なものを作らねばなりません。そのために、ニュートンとアインシュタインの重力理論の間には哲学的な考え方にどえらい違いができるのです。」(p260)
 
 
 ここでファインマンは、「現象が予言できるくらいに知識が完全であること」、「理論が単純かつ完全であること。そして明確な結果を生み出すものであること」の大切さを述べている。
 これはとてもとても大切な事だと思う。
 
 曖昧な認識は、間違っているとも間違っていないとも言えない。だから修正されることもない。シャープに、くっきりと物事を、あるいは論理を掴むとき、それが適用できない場合、間違いになる場合も、同じ程度にシャープに、くっきりとしたものとして浮かび上がる。そして次の、より包括的な、より根本的な認識と論理にたどり着く条件が生まれる。こうしたことは日々の学習の中でも、ほとんど同じように貫かれている。
 
 学力のある生徒ほど物事を曖昧にしていない。微妙な論理のズレや齟齬に敏感に反応する。まぁだいたいこんな感じという処理をしているかぎり、間違いは表面化しない。それではいけないとファインマンは言っているように思う。
 
 確かに高校までに習っていることは、あるいは受験の中で向きあうものは量子力学とかアインシュタインの相対性理論とか、そうした大きなものではないかもしれない。けれどもよく考えてみると、一人ひとりにとって物理法則は、いや物理法則に限らないけれども、そうしたものは「発見されるべきもの」としてあるとも言える。まだ一人ひとりにとってそれは存在していない。その存在していなかったものを、自分のプロセスの中で自分にとっての「発見」をする。そうしたことが大切なのだろう。誰かに教えられたものwお丸呑みするのではなく、自分が学び取り、見付けだす。それは誰かがやったことだけれども、それを自分のものとして体験していく。そんなあり方を求めていきたい。
(高木)

学習論 西林克彦氏の本を読んで

  こういう仕事をやっていると、つくづく、人間対人間の格闘だと思う。全力を振り絞って一人の生徒と格闘しても、(それは本当に格闘です。ここはなんだか格闘技場のような教室だな、と自分でも思うことがある。) その結果を最終的に決定するのは、その生徒自身だから、どうにもならないこともある。またその逆もある。

最近、学習論に関する本を3冊読んだ。
西林克彦氏のもので、『間違いだらけの学習論 なぜ勉強が身につかないのか』(新曜社)、『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』(光文社新書)、『あなたの勉強法はどこがいけないのか』(ちくまプリマー新書)。
内容は参考になる。とくに『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』と『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』は中3から高1,2くらいのときに読むと良いと思う。後者のほうが生徒の目線を意識しながら、じっさいの勉強方法について書かれている。けれどももし1冊読むなら、『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』を勧めたい。ものごとを知る、学ぶ、そのために読む、ということについて、見た方・考え方が変わるのではないか、と思う。

これらの本の内容はいずれ紹介したいと思っている。

けれども、それらを読んで感じたことが「人間と人間の格闘やなぁ」ということだった。

書いてあることはよくわかる。分かりすぎるくらいよくわかる。日々感じていることに、認知心理学の立場から明快な理論と概念が、またそれを裏付ける実証性が与えられるような気がする。
知識を切り縮めようとするような学習がどうしてダメなのか、丸暗記をしているだけではどうして問題を解決できないのか、そもそも同じ授業を受け、同じテキストを使っていて、さらには同じ学習量であってもどうして学力に差が生まれるのか、そもそも学力はどのように構成されているものなのか。それは「素質」などの一言でかたがつくような簡単な問題なのか、素質なんだよ、というならば、それはもう改変不可なのか。
そうした様々な「学習」にかかわる問題点について筆者は明快に述べてゆく。

まったくその通りだ、と思うことは多々ある。
けれども、だ。きっと問題はその先にある。
ひとりひとりの生徒は、15年、16年、17年生きてきて、いま目の前にいる。その年月は、そのまま言語を始め、様々な知識の蓄積としてある。しかもその蓄積は、実はバラバラの要素になっているのではなく、西林が思っている以上に密かに関連しあっているように感じる。AとBをバラバラに覚えているとそれは使えない知識になってしまいます。全くそうだ。しかし問題はさらにある。本来、AとBが関連付けられていなくてはならないのに、そこが切断されている代わりに、本人も自覚がない間に、論理だかイメージだか分からないもので別の何かと関連付けられていることがおおい。つまり同じAということが、生徒によって別の文脈に置かれていることが少なくない。それが10年以上の蓄積のなかで、強固な構造物をつくりあげている。そして、例えば数学的に正しい理論と概念は、この構造物をいったんたたき壊さなくては全くつかむことができなかったりする。そうでなければ、提示された概念もまた別の文脈に自動的におきなおされ、予期せぬ何かを産み出していく。そうした事例にいったいどれほど遭遇してきたことか、と思う。

正しいことを教えるのはある意味で簡単なことのように思う。あるいは、そんなことは教科書や参考書に書いてある。
つまり問題は、正しいことが提示されても、それが別様の理解を生み出すことにあるように思う。


そうしたことを考えると、詩学と科学哲学についての示唆に富む文章を書いてきたバシュラールの認識論的障害、認識論的切断ということの重大性が身に迫ってくるような気がする。
キリスト教神学とその一環としてのアリストテレスの自然学から近代科学が離陸するに際して、激しいパラダイムの転換があったと述べたのはTh.クーンだった。そして私は、その転換が、<切断>というある種の破壊を伴うものとしてあったのだろうと思う。
バシュラールは、無知や誤謬は空っぽなのではない、という。それは強固な織物を作り上げている。だからその織物を、その構造物をいったん切断しなくては、新しい何ものかを注ぎこむことはできないのだと述べる。

10数年かけて織り上げられてきた構造物とのたたかいは、本当に本当に格闘だな、と思う。

(こんなことをここに書いても仕方ないような気がしないでもない。けれども、書いておきたい、と思った。)

(高木)

小手先の技術に走らないように!!

 よく「受験数学」とか「受験英語」とか言われる。確かに受験という固有の形式から求められる固有の技術はある。例えば制限時間があること、ほぼ必ず「答え」がでること(ただ、以前に神戸大学で「解がない」ということが解答の問題が出されたことがあったと思う。まぁ、受験生にとってはかなり意地悪では ある。けれどもそれが本当の数学の姿でもある)。
だから数学だったらだいたい20分から30分くらいで一つの大問が解けるようにできている。センター試験でも問題数も構成もほぼ決まっている。そこから「固有の技術」というものが生まれはする。例えばセンターの数学ⅠAで第4問(場合の数・確率)から解き始める受験生はほとんどいないだろし、国語の小説で主人公の気持ちになりきって没入してしまってもいけないだろう。自分が解きたい、面白そうな問題だからやってみたいなと思うものにこだわりすぎてもいけないだろう。

ここからかなり多くの誤解が生まれてくる。
つまり数学や物理・化学・生物、あるいは英語や日本史、世界史。そうした個々の教科(あるいは学問)の基本的なあり方(知識と論理)とは別にあたかも「受験数学」など「受験△◇」というものがあるかのように思うことだ。またそのようなことを「ウリ」にした参考書や問題集(いったいそれが何の参考になるのだろうかと思うけれども)、そういうものが溢れかえる。またそうしたことを教えるよと、楽ちんな道があるよ、とささやくような人たちも大勢いる。「10日間完成!」などとハデに書かれていたりする。

でも10日で完成などするわけがない。分かり切ったことだ。けれども、すがりたくなる気持ちが揺さぶられもする。
もし本当に10日で完成する場合があるとすれば、それは「あと10日で仕上げの演習をやれば完成!」というところまで積み上げてきた生徒の場合だけだ。ほとんどゼロから10日で完成するなら、大学は、そのようなことでは通用しないような問題に切り替えてくるだけだ。大学は「10日で完成した」学生など必要とはしていないのだから。


受験用の勉強であっても、そこに数学以外の、物理以外の、その教科の論理以外の何かがあるわけでは決してない。裏技のようにいわれるものの、実はその背景にキチンとした論理を背負っている場合が大半だ。(そうじゃない場合もけっこうあるけれども。)
けれども誤解した立場から、例えば数学なら数学そのものの勉強には向かわずに、どこにも存在しない「受験数学」の勉強に向かおうとする生徒が生み出されてくる。
するとどうなるか。
数学に背を向け、数学ではない「受験数学」にのめり込むのだから、力がつくわけがない。最終的に要求されているのは数学の力であって、「受験数学」の力ではないからだ。スポーツで言えばいくら対戦相手の研究をしても、基本的なその競技の力をつけていくことがなければ意味がないのと同じだ。


具体的には、「こういうのは受験に出るんですか?」と聞かれることがよくある。そういう問題の立て方は基本的に止めた方が良い。
その背後にある意識は「まともに数学の勉強なんかしないで、できるだけ楽をして合格できたらいいなぁ」という思惑だろう。まぁ確かにむやみに苦労しろとはいわない。気持ちは分かる。けれども、その発想は大きなマイナスになる。例えば走り高跳びで150センチのバーを、151センチ飛んで越える力をつけようとするようなものだ。そんなギリギリのラインを狙うなんて実に難しいことだと思う。けれども、その方が簡単だ、あるいは楽だ、という幻想がある。それは違うと思う。合否は確かに1点、2点で分かれる。けれども、合格最低点+1点を狙うなんて、とんでもなく難しいことだ。けれども漠然とそうした方向を向いていることを感じることが少なくない。

それ以上に、その問題の立て方は自分の意識をどんどん狭めていってしまう。このことの方が悪影響が大きい。
「これは関係ない、これはいらない、これもたぶんなくていい……」。
こうやっていくとドンドン知識や論理はやせ細る。本来、相互に連動し、一つの大きな体系、織物を作り上げているようなものが、バラバラに寸断され、あちらこちらに穴が開けられてしまう。そうやって自分で学力を壊していってしまう。これが恐ろしい。実際に「これは関係ない、これはいらない」ということは、自分の知識や思考力、発想力にブレーキをかけることにしかならない。いつもいつも一生懸命、自分の脳を鍛えないようにしている。そういうことになってしまう。それで本当の力がつくわけがない。
このくせがつくと本当に苦労する。場合によっては数年かけて自分自身の学力を壊してきてしまったという場合もある。

だから、特別なことをやれ、とは言わないけれども、正面から向き合い、キチンとした学習とそのあり方を作り出して欲しい。特に1,2年生のうちにそうしたあり方を作りたい。じゃないと勉強が本当につまらないものになるよ。
夏休み、しっかりと自分の課題と教科に向き合いたい。
(高木)

学習上の課題について

以下の文章はかなりヘビーなものです。けれどもいま直面している課題でもあります。思いあたる生徒もいると思う。その場合は、本当に自分自身の思考のプロセス、内容、そうしたものを根こそぎ変えてしまうようなことが突きつけられることになると思う。また実際の指導の中でそうしたことに直面していると思う。その課題について少し書いてみました。



この1,2年、いやもっとか。言葉について考えさせられることが多い。主語と述語、主節と従属節、順接と逆接。そうしたもっとも基礎的なことがらが崩れ去っているケースが目出す。論理が言葉の規則の上にのっている以上、言葉の統辞法のレベルでの崩れは、論理そのものが成立する根拠を失わせる。
いま読んでいる哲学者の鷲田清一が「哲学が小難しい概念的展開だけに堕してきてしまった」という趣旨のことを述べ、「聴くことの意味と力」を主張し、臨床哲学を提唱する。それはそれでいい。けれども、事態は彼の想定を遥かにこえて深刻なのではないか。
身体は、表情は、呼吸は「論理」たりうるだろうか。
確かに身体にも、表情や呼吸にも、あるいは言葉の肌理にも、論理は宿る。それらは具体的であるからこそ豊かに様々な含意や可能性を開示する根拠になるだろう。けれども、それらはメタレベルを現しうるか。現し得ないのならばメタレベルの思考はやはり言語を介在させる以外にないのではないか。つまり抽象的なことを抽象的に表現する場がそこにあるのか、ということだ。それがなくなってしまうことがどれほど深刻な事態であることか。

鷲田はおそらく、そのメタレベルに道を開くことのできる言語の成立根拠を問うているのだろう。あるいはそうした問題意識を含んでいるのだろう。
けれども私には彼が考えている地点がとてものどかな、牧歌的なところに思えてならない。それは「哲学の死」どころではない。敬語表現やいわゆる「言葉の乱れ」などという次元でもない。もっと言語の言語としての存立そのものの基盤である統辞法の解体とでもいうべき事態の進行なのではないかと思える。
少し前に市川伸一氏の学習論(例えば『勉強法が変わる本』など)を読んだことがある。また実際の学習カウンセリングの現場からのレポートや論文も少しだけれども目を通した。参考になることは多い。とても多いと言っていい。そこでも学習において「カウンセリング」が必要な子どもたち、生徒たちが登場するが、それもまた長閑な、牧歌的なものに見える。

例えば書かれている文章と、それを読む側で分節構造がずれていたらどうなるか。英語でスラッシュを入れて文の構造を掴みながら読むやり方があるが、スラッシュの入れ方が間違っていれば文章の正しい解釈はできない。同じことが日本語で起こっている。これは国語力といえばそうだが、国語という教科のことを言っているのではない。例えば数学でも同じだ。日本語だけではなく、数学にも理科にも起こっていると思える。
問題文の条件を書き出しているときの目や手の動きを見ていると、明らかにその問題文の文節の構造、数式の構造、条件と帰結の関係などと無縁の動き方をしている。
例えば等式を=の左右を各々の塊として捉えず、○○△△□=■●▲▲◆◆という等式があった問して、それを書き出すならば丸ごと一つとして書き出すか、左辺、右辺ごとに書き出すのが合理的だろう。けれども、○○△△□=■●▲で書き出している手がとまり、▲◆◆だけが独立してまた書き出される。本来の等式の構造がぶちっと切断されたところから再構築がはじまる(あるいははじまらなかったりする)。
少なくとも書き出しているときに働いている思考は、数学の論理と異質だ。端的に言って数学の論理の要請にしたがって数式を捉えてインプットし、アウトプットしているのではなく、一見して記憶しできるユニットの大きさに即して対象を切断し、移し替え、貼り付けて「再現」している。その時、書き写された数式はもとのものと同じ姿をしている。けれども、それはすでに根本的に異なる論理の上にのせられている。

あるいはいつのまにか等式の等号を書かないで、紙上には○○△△□と■●▲▲◆◆が独立しているかのようにして書かれている。「等号は?」と聞くと「いや頭の中にあるから」などという。ここで数学の論理は完全に切断されている。頭の中にあるからでいいのか?等号は右辺と左辺の関係を規定しており、その関係に論理が存在している。論理とは何かと何かの関係にこそ存在するからだ。
だから等号を書かないことは、その論理を切断することと等しい。そして「頭の中にある」という形で別の論理を作っているといって間違いない。
この生徒は、こういう「手抜き」の表記を中2くらいから初めて高校3年生まで延々と続けてきた。そうやって自分の内部の数学的論理を突き崩してしまい、等式の同値変形ができなくなっていた。
では、等号を書くようにすれば戻るのか?
戻らなかった。
まず等号をきちんと書く(つまり右辺と左辺の関係を明確にさせる)ことがなかなかできるようにならない。巨大な習慣の力がすでにガッチリと根を張っていた。
それに結局、いつまでも等式の同値変形が通常の求められるレベルでできるようにならなかった。
数年間かけて自分の内部の数学的論理を解体し、かわりの数学できはない何かを作り上げてしまってきていた。数学という一つの「言語」の解体の場に立ち会ったような気分だった。全力を尽くし、問題点を解明し、提示し、格闘したが、それは成功したとは言い難かった。
このとき正しいことを教えるだけでは解決しないということを思い知った。間違って作り上げられたものをいったんは徹底的に破壊しなければ、数学的に正しいことがほとんど入っていかない。そうした事態に直面した。G・バシュラールの認識論的障害と認識論的切断という概念が身につまされて理解できた。

いまも日々、直面している課題だ。おそらく今後ますます増えるだろうと思う。
これはもう学習方法とか解法とかというレベルの指導では太刀打ちできない。いわば思考のプロセス、思考すると言うことそのものにかかわっての課題だというべきだろうと思う。
現れは本当にささやかなものだ。微かな匂いのようなものだと言っても良い。微かな匂い、違和感をともなったそれを感じたときには、本当に全力で生徒の内部のプロセスにアクセスしないといけない。その現場からスタートするしか出口はない。

この格闘のプロセスは講師にも苦しいが生徒はもっと苦しいと思う。本当にいままで積み上げてきたものをいったん壊さなくてはならない。そのことの苦しさは想像を超えるだろうと思う。けれども、それしか道はない。この確信は間違っていないと思う。
そうした課題に直面したら、全力で、すべての力を振り絞って格闘して欲しい。私も闘うから。


PS
課題だけ書かれて、解決策がないではないか、といわれたら、確かにそうです。ヒントだってないかもしれない。
けれども、課題がはっきりすることは、その解決への第一歩、避けて通ることができない決定的な一歩です。そのためになれば、と思います。
苦しいのは君だけではないんだ。
(高木)

<できる>ということ

 「この問題はわかる」と生徒が言うとき、実はかなり内容的なバラツキがあります。
自分では解けなかったけど、解答を見たらだいたいわかった、という生徒もいれば、自力でほとんど瞬時に解けたという生徒もいる。自力では解けなかったけど解答を見ながら一度解いてみて、さらに何もない状態から自力で解き直しをしてみる。まだちょっとアタフタするような感じだったからもう一回解きなおしてみたらスパッとできた、というような状態ではじめて「この問題はできます」と言っているような生徒もいる。かなりの開きがあります。
またその解答・解説の細部や、NOTEとか研究とかという形で書き込まれているものもすべて目を通して、あれ?と思ったら質問するなり個別で聞くなりして納得して次に進んでいる場合から、ほとんど解答の結果、数値があっていたらそれでOKとして次に進んでいるケース。本当に千差万別です。

同じ問題集や参考書を使って、同じだけの量を演習していて(例えば同じ2回ずつ解いていて)それでも結果が全然違います。ある意味で不思議なことです。
そういうとき、すぐにセンスがあるとかないとか、「○○は頭が良い」とかそうではないとか、そういう話になることが多々あります。

センスというものもあるのかも知れません。頭が良いとか悪いとかということもあるのかもしれません。「○○は昔から良くできたから…」というようなこともあるのかも知れません。
けれど私はあまりそうしたことは信じていません。いや正確に言えば信じていないと言うよりも「センスがあるとかないとかわかるくらいまで、本当はまだやっていないのではないか」という気持ちの強くあります。加えて学習方法をしっかり検討し、キチンとした自分の方法をもっているかどうか、その質がどうなのか、そういうことを考え抜いているのか、ということもあります。センスなどはその先の話です。

まずは学習の質と量です。

質というのは自分ではわかりにくいと思います。客観的な数値になるような物差しがありません。
だから個別指導があると思ってくれたらよいです。

いまの学力が志望校、例えば東大や京大、名古屋大学、あるいは国公立などの医学部だとか、そういうところに届いているかどうか、届きそうなのかどうか2年生ではほとんど問題になりません。学力はあればそれに越したことがないけれども、2年生までの学力、学校のテスト結果などを、あまり私はアテにしていません。それ以上に死活的なのは<学習の質>とも言うべきものです。ここが志望校に対して全く低いようでは、その後、どれほど量を積み上げても合格には届きません。これは経験上の一つの法則のようなものです。

ではその<質> といっているものをどう測ったらよいのか。それは個別の中で実際に指導されていることで判断してください。あるいは同じようなタイプの問題を解けるようにして、しばらくしたらすぐに解けなくなっている、忘れている。それは「すぐ忘れる」という問題なのではなくて、最初にやったときの踏み込み方、理解の仕方、あるいは身に付け方が浅いのです。まずはそう考えてください。

もう一つだけ言うならば、勉強の軸のようなものがずれていると非常に難しい問題に直面すると言うことです。
その軸は大別して二つあります。
問題演習をする。ここまでは同じ。
その時、その目の前の問題を解くことだけに軸をおくのか、その問題が解ける解けない(まぁ解けた方が良いけど)ではなくて、その問題を通して何を理解し、何ができるようになり、自分がどういう力をつけたのか、つけなくてはいけないのか、というようなことに軸があるか、ということです。前者は、その問題が解けるようになっても、それ以上にはなかなかなりません。

自分の勉強を捉え直してみてください。前者になっていませんか? 個別指導の宿題を、個別指導までにやっつけるために勉強していませんか? そのページにせっかく書いてあることを、その目の前の問題を解くためには必ずしも必要ないからと簡単にスルーしていませんか? すぐに解答を見て、読むだけで何か納得してしまったりしていませんか?
自分で基準を甘くして、そういう学習の質を体質にしてしまうと、かなり厄介なことになります。そうなっていませんか?

私も個別指導の中で、宿題になっていて、「いちおうできた」と生徒がいった問題を実際に目の前で解きなおしてもらったら解けない、あるいは、何とか解けたが多分、1,2週間もすれば忘れてしまうだろうなというようなことをたくさん見てきました。だから、いまこんな文章を書いています。

同じ問題集を、同じだけやっているのに、同じように学校の授業を受けているのに、結果が全然違う。才能だとかセンスだとか、そういうものに逃げ込んだらダメです。どれだけのことをやっているのか、どういう内容でやっているのか、身に付けるべきものを身に付けているのか、そうしたことをしっかり捉え直してください。ここでの格闘が次のステップを準備します。改善すべきことを指導しているはずです。講師から言われていることを良く反芻してください。それを一つの物差しにして、自分の学習のあり方を考えてみてください。


3年生は大至急!です。模試の結果などがある程度見えてきました。手をこまねいていてはいけない。悪い結果なら、課題が浮かび上がってきたのだから喜んでください。そのくらいアグレッシブにことに臨もう。
まずは自分で徹底的に課題を整理しよう。
自分が本当にこうだ、と思ったことしか実は身にはつかないし、できるようにはならないんだ。冷静に、ある意味では冷酷に自分を捉えて、しかもゴールから目をそらさない。そういう強さがいま君たちには求められていると思う。
(高木)

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