以下は、ある生徒へのメールです。勉強することについてのヒントになればと思い、アップします。
模試、おつかれ。
予め言っておきますが、これは嫌味でも皮肉でもありません。
「物理が物理としてなってないと恐ろしいくらい実感しました
恐怖に近いものはあります。」
これを感じたことが今回の模試の最大の成果です。もう一度言いますが、皮肉でもなんでもないですよ。
もしこれを感じなければ、あなたの勉強はこれまでの延長線上で、ある程度改良する、というものになるでしょう。けれども、こう感じてしまったら、これまでの勉強とはまったく違うことをやらないといけないのだ、ということにイヤでもなるでしょう。
だからこういう痛みは和らげてはいけない。曖昧にしてはいけない。糊塗してはいけない。日常の学習の細部に至るまで、隅から隅まで見直し、洗いなおし、作りなおすことです。その出発点になるかもしれないことなのです。もしこれを少しでも曖昧にしたり、なにか弁解したりしたら、その分だけ学習は変わらず、またおないことをくりかえします。
物理を作りなおす。たぶん、それは数学で少しつかんだけれども、その数学も含めて、英語なども同じことだと思います。
カギの一つは体系性だと思います。物理、高校でやっている古典物理は、おそらく様々な学問の中でももっとも強く体系性をもったものだと思います。
この間、定義や公式の導出ということもその一部ですが、体系性というのは、その学問全体の論理性です。一つ一つの定義や公式の導出が、柱だったり屋根だったりするとしたら、全体の体系性とは一軒の家です。いくら柱や屋根に使う瓦を吟味して、しっかりしたものにしても、その組立がでたらめだったら粗悪品で建てた家以下のものしかなりません。というよりも家になりません。バレエでいえば、個々のポーズをキチンとしっかり仕上げても、その流れが崩れてしまったら踊りになりません。そういうものです。
では「体系性」(体系性というとなかなか大仰なものに聞こえますが)はどうすれば作り出せるのか。それは言ってみれば、順番であり、あるべきところにあるべきものごとが収められているということだと思います。だから順番に最初から説明できるようにすることは大切なのです。つまり体系性は論理性の上になりたっているし、その論理の中ではとくに因果関係が大切です。
だから、つねになぜ?と問うことでもあり、で、どうなる?と問うことでもあると思います。
数学では一つ、二つの数少ない事柄から、それを演繹して多くのことを導き出し、応用できるような、その端緒に立ったと思いますが、そういうことです。
普通はここまでやりませんが、君の場合、いったんは著しくこの点が損なわれてしまったので、やっぱり意識的に作り上げないといけないのだろうと思います。
もう一つは、その「体系性」に立った思考に慣れること。その思考を自分の思考とすることです。なぜ物理が出来る人は、いつも物理ができるのか。簡単です。物理現象を物理的に考えているからです。別言すれば、物理に即して考えているからです。その考えるということ事態が物理学的に行われていらです。
それは別段難しいことではありません。学者にだけ求められることでもありません。例えば(2+3+128+98+237)×11と(98999-549)では後者のほうが大きい。当然のことですね。別に足し算なんかしないでも直感的にわかります。逆に細かい議論をすればよくわからなくなるかもしません。せいぜい何千という大きさのものと何万というものですから比較になりません。でもそれは数学をやっていないとわからないことなのです。たぶん。それは論理だてて行ってきた経験が、一つの直感にまでなった状態なのだと思います。つまり、習いはじめのとき、自分の外側にあった論理が、いつのまにか自分の内部のものになっているわけです。
体系が自分の外部にだけある状態ではまだ不十分です。けれども、その道を何度も行き来しているあいだに、その論理そのものが自分のものになっていく。何度も自分が行き来するのですよ。読むだけでは外側にあるだけです。読んで反芻し、自分でその筋道を再現し、たどり直してみる。そういうことを繰り返せばたぶん、その論理は君のなかに根付いてきます。そうしたら高校のレベルでいえば、ほぼ完成です。
何かヒントになりますか?
いままで言って来たこと以上でも以下でもないかもしれませんが、まぁ一度、キチンとまとめたほういいかなと思ったので、返信しました。
もう一度言いますが、今回の痛みは、それが鋭ければ鋭いほど、今後の出発点になりうるものなのです。
高木
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