私はもともと物理学科で、いまは数学、物理、現代文までは教えたりしますが、その私が化学の質問を受けることがまれにあります。
化学は基本的にできません。けれども経験的に言って…どうかな、たぶん80%くらい解決してしまいます。これは1年や2年生だけではありません。受験生でも、です。
なぜだと思いますか?
それどころか生物だってそうなることがあります。まったく未知の問題の質問を解決することもありました。
なぜだと思いますか?
また現代文。
私は多分、センターの評論文は、本試・追試あわせて、どうだろう?15年分くらいに1個くらいの間違いだと思います。
そのとき、例えば傍線部や設問文、選択肢にどう向かっていっているのかわかりますか?
化学や生物の質問について、その教科の内容を説明して解決することはありません。できることがないわけではありませんが、そうはしません。
ただ生徒にきちんと読ませる。それだけです。
きちんと読ませる。理科の文章を。どのように?
主節と条件節をきちんと区別させる。その各々の主語・述語・目的語を確認させる。指示語の中身を確認させる。接続関係を確認させる。
さらに例えば問題文や解答に書いてある言葉の説明を聞いてみる。ヘンリーの法則って何だっけ? 減数分裂って何だっけ?とか。減数分裂を知らなければその場で調べさせます。
ほとんどの場合、これで解決します。私が教えた内容は何もありません。それでも解決します。それも少なくない割合で解決してしまいます。
現代文で何をしているのか。
当然全体の論理構成、その段落内の論理展開、設問部前後の論理を把握することは大切です。けれどもまずやるのは、傍線部を含む一文を丁寧に分析します。
一文の分析を丁寧にやる。どういうように?
主節と従属節をきちんと区別する。各々の主語・述語・目的語を確認する。指示語の中身をはっきりさせる。接続関係を正確に捉える。
以上です。まずは。やっていることは、化学・生物も現代文も何も変わらない。ようするにキチンと読むこと。それだけです。
いったいどれほどの生徒が日本語で書かれている設問部の、あるいは選択肢の、主語や述語、指示語の中身についてキチンと把握しているのか。非常に少ない。極めて少ない。そうですね、まぁ、20人、30人に一人かな?もっと少ないかな? いままで個別で指導した生徒、例えば京大法学部や阪大外国語学部にいった生徒がいました。このあたりはそれなりの国語力があるはずの生徒ですが、そういう生徒にしてもなお、上記のようなことにかなりの問題がありました。
文章というものの基本は文です。文というのはセンテンスです。そのセンテンスの集合が段落になりますが、私は基本は文章と文が最も骨格的な構成要素だと思っています。段落はそれに比べると低い位置にあります。書き手によって段落の区切り方はかなり違うし、法則性があるわけではありません。しかしセンテンスについては従うべき文法というものがあります。
その一つ一つのセンテンスが把握できないでどうして文章が読めるでしょうか?
そしてセンテンス内の節と節の関係、センテンス相互の関係。その接続関係がほぼ論理関係になります。
英語でも日本語でも同じなのです。
ただ英語ではS,Vとかをそれとして考えなければいけないのだとしたら、トレーニングの大きな不足です。それが無意識にでもできるようにならないといけないのは間違いないことです。けれどもそれは意識しないでもできるということであって、SとかVとかを気にしないということではありません。
逆に日本語の場合、慣れすぎて、もっともセンテンスの主要な構成要素についての認識がデタラメなものになっています。
例えば長岡亮介氏の『総合的研究』を使っているのだから、数学の解答でキチンとセンテンスを抑えてみてください。びっくりするくらい適当に読んでいたことがわかるかもしれません。条件節と主節を切り離して、主節だけを解釈していた、主語と述語の対応関係を間違えていた…ということが多々あるはずです。だって、君、問題を最後まで読まないことがよくあるでしょう? 日本語の述語は最後にあるのですよ。問題を最後の一言まで読まないことがあるのだから、一文の主語・述語をキチンと読んでいるわけがないのですよ。
でもこうすると極端に読むのが遅くなります。その弊害はあります。
もっとも、その弊害は、多分、想像しているように「時間内に解けない」ということではありません。それは受験にとっては大切なことですが、それほど本質的な問題ではありません。本当に大切なことは、極端にゆっくり読むことと、高速で全体を読み下すときとでは「景色」が違うことです。例えば時速60km/hで走る自動車のなかから見える光景。その同じ道をゆっくり歩きながら見える光景。それは明らかに違います。そのどちらかが本物でどちらかが偽物だということではありません。次元の異なる二つの景色なのです。
細かく視点を動かしていると、いわゆる「木を見て森をみず」ということになります。全体の構造は見えなくなります。逆に高速で読み下していると細部はほとんど読めない。
では、どうするのか?いったいどういう早さで読むべきなのか。
これは意外に大切なことなのです。
けれどもとりあえずの解決は簡単なことです。
じっくり、ゆっくり読む。しかるのちに全体を一気に読み下す。
まぁ感覚的にいえばセンター試験の評論文を30分とかそれ以上とかかけてじっくり読む。そしてしかるのちに5分で読む。2,3回高速で読み下す。またゆっくり読む。そうして両方する。簡単な事です。
その次は、それなりにじっくり読みながら、さっと前後を見て、また細部にもどる。それで一回で内容を把握できるようにする。
まぁトレーニングですね。
ただ、私はその際の基本は、じっくり・ゆっくりの方だと思っています。いわゆる精読です。例えば研究者がある文献について新しい斬新な解釈を打ちだすことがあります。それまでのある文献の読み方、読まれ方を覆すような新しい読み方を提出することがあります。こういうときのきっかけになるのはいろいろですが、ある細部の読み込みからつかみとったことをテコにして全体の読解を覆す。そういうことが少なくありません。「神は細部に宿り給う」という言葉がありますが、大切なことだと思います。細部から全体へ、です。
こうしたことはまだ早いですか? 研究者ではないから、と思いますか?
そうではないですよ。
ある文章が曖昧にしか読めない。その場合、ある部分が読み解けることで全体像がパッと明らかになる、一挙に視界がひらける瞬間のようなことがある。それはいまの高校生や受験生のレベルでも大いにあることです。だからまずは細部をしっかり把握する。そして全体を読み下す。また細部にもどる。また全体を読み下す。その場合、スピードを意識的に変えてください。30分と5分。そのくらくは違ったほういい。視界を、景色を変えてください。それは大切なことです。
あと二つ。ついでに。
一つ目。読めない場合によく起こっていることがあります。かなり多いと思う。
筆者と「呼吸があっていない」とでも言うべきことです。あるいは「リズムがずれている」と言ってもいいかもしれない。
もし筆者が目の前にいて同じ内容のことを話をしたとしましょう。その場合、どうするだろうか?
どうしても伝えたいところは声が大きくなるかもしれない。2,3回繰り返すかもしれない。ゆっくりと話しもするでしょう。身振りだって大きくなる、目だって大きく見開かれる。そうやって重要なところ、ポイントになるところ、どうしても伝えておきたいところを強調するわけですね。それに対して、それほど重要性がないところはさっと事務的に話すだけで終わったり、早口になったり、声だって小さくなったりするでしょう。
聞き手は知らず知らずのうちにその筆者と呼吸をあわせて聞きます。そして言いたいことを掴みます。だから言葉は上手く言えなくても、全身からメッセージを受けることだってあるわけです。むしろ日常的にはその方が多いでしょう。誰もが論理的に話を組み立てているわけではないですから。
けれども文章の場合、筆者は目の前にいません。書き手にとってはある種のもどかしさがあるでしょう。そこで筆者はいろいろな工夫をします。繰り返す、ゴチックにする、傍点を振る、ラインを入れる、「」で括ってみる。あるいは明示的に「もっとも重要な事は」とか書いたりする。修辞法を駆使して強調する。1行、2行だけで独立した段落にする。さまざまな工夫をします。それはいわば文章の身振りなのです。そこに筆者の息遣いがあります。
息遣いを感じ取ることです。聞き取ることです。これは多分、とても大切なことです。
どんな文章でも、その力点の置き方、強調点の置き方を変えてしまうと内容が大なり小なり変わってしまいます。場合によってはまったく違う内容にだってなってしまいます。例えば、必死に声を大にして訴えたところを無視して、さっと簡単に「一応触れておく」みたいなところを取り出してそれについてアレコレいうのを「重箱の隅をつつく」とか、場合によっては「あげ足を取る」ということがありますが、大抵の場合、筆者の、話者の言いたいこととは違う内容として把握されていることが多いです。
だから筆者が必死に強調しているところは、筆者に代わって力を込めて読む。ゆっくり読む。腰を落として読む。そんな感じは大切です。私は、そうしたところで速度を落とすためにラインを引くのではなく、傍点を打ちます。一言、一言、それとして意識にしっかり刻みこむために、速度を落とすために、さっと前に行ってしまおうとする自分の視点をそこに留めるために、そういうつもりで傍点をうちます。
もし上手くできないなら、一度、音読をしてみてください。そして筆者に成り代わって抑揚をつけ、リズムを調整し、場合によってはくりかえし、声に出して読んでみてください。目の前の仮想した聴衆に向けて訴えてみてください。そうすると少し掴めるものがあるかもしれない。それからもう一度、全体を読んでみてください。また少し文章にみえる景色がかわるかもしれない。
私もかなり厄介な文章を読んでいるとき、ブツブツ言いながら読んでいることがあります。強調点を強調する。あるいは主語、述語、目的語を意識的に明示的に強調しながらブツブツいいながらよむ。そうするとなるほど!とわかることもあります。まぁダメなこともあります。
二つ目。
これはちょっと気になっていることです。
読むことが下手な人は往々にして解釈し過ぎます。一定の解釈は必要ですが…
特にわかりにくいところになると解釈モード発動みたいになる人が多い。わかりにくいところを把握するために必要なことは、第一にはその文脈の中で筆者がどのように述べているのか、の正確な把握です。AのことをBと言っている。なぜだろう?それは筆者に聞くべきことです。つまりは文章に聞くべきことです。けれども、自分なりにいろいろな解釈を始める。確かにある程度必要なのですが、正確に理解するために必要な解釈とは異質な感じを受ける「解釈」をする人がいます。その「異質な解釈」というのは、多分、その人が「この人はなぜこういっているのだろう?何を言おうとしているのだろう?」ということよりも、自分の世界のなかにその文/文章の部分を引きずり込んで「納得しよう」とする働きのように思えます。その瞬間、その文/文章はもともとおかれていた文脈から離れてしまって別の意味を持たされてしまいます。ここで読解として破綻します。
ハッキリさせておいたほうがいいのは、永久に納得出来ないことが書かれていることもあれば、10年後にはじめて納得できることもあるということです。その場でいつも納得できるわけではないのです。あるいは理解できるわけではもないのです。だから「自分の納得のために」「自分が理解できるように」解釈してはいけない、変容させてはいけない。
だから文章のなかに「これはなんだろう?」と謎が残って宙ぶらりんになったままの部分が残ることがあります。あえていえば、ほとんどの文章にはそうした部分が残ります。筆者だってうまく説明できないことだってあります。けれどもそう書くしかないことだってある。例えば、ある日、空を見ていたら不意に涙がこぼれた。それを無理やり理由をつけて読み手が自分に納得させてはいけない。
大切なことは、宙ぶらりんのまま、それを忘れずに、しかしそこで足踏みをし続けないようにして読み切ることだと思います。読みきって、また読んで、3回めに宙ぶらりんの部分について深く理解できるかもしれない。気持ち悪いし、もどかしい。けれどもいまも自分には読みきることができない文章は山のようにあるのです。いぜんに私もある人の50ページくらいの文章を半年かけて読みました。けれどもまだ宙ぶらりんの部分がたくさんあります。またそのうちに読みます。いまは、その文章が読めるようになるために、回り道をしていると思っています。
まぁ、この辺りはなかなか微妙なところですね。でも本質的にかなり大切なことのように思います。
高木
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