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豊田利幸教授から学んだもの=大学でのこと 4

 豊田利幸教授が亡くなった。享年89歳。
すでに教授については3回にわけて書いた。大学とはどういうところなのか、学問とはどういう姿勢で臨むべきものなのか、物理学とは何か、自然科学とは何か。そうしたことを講義を通して、言葉と存在をとおして教えていただいた。教えていただいたと思っているのは私の側だけのことだろうと思う。けれども、まぁそうしたものだ。

自然科学のもっとも根本的な立場として、人間に立ち、人間の感覚に立ち、その感覚によって人間と自然との関わりを捉えるところに立つものだと学んだ。何かの権威に寄りかかることではなく、何かの自分には確かめられないものに依存することでもなく、自らの目と、耳と、そうした感覚によって自ら<世界>と対し、それを捉え、自らが思考し、判断し、そして論理を構築する。巨大に膨れあがった自然科学や科学技術も、そのもっとも原初的な、あるいは根源的な姿において、そうした人間と自然とが切り結ぶ<場所>を内在させてなくてはいけないのだと教えられた。あるいは受け取った。

豊田教授が教えようとしていたことは、紙切れの上のことではなかったように思う。あるいは実験室の中でのことだけでもなかったように思う。彼が最も伝えたかったのは、物理学という学問のあり方と、物理学を学び、研究すると言うこと、あるいは自然科学を学び研究すると言うことだったのではないかと思う。
2000年に岩波書店から刊行された豊田教授の『物理学とは何か』という本が手元にある。200ページほどのさして大部とはいえない書籍である。その序文とあとがきから少し引用したい。

「物理学には教典とか教義という類のものは一切ない。むしろそういうものを排除し、それにまつわる考え方から自由であるように努めてきた。このことは物理学の研究と教育の二つの面で顕著に見られる。物理学における研究と自由の重要性が、自覚されるようになったのはガリレオ以後のことであるが、ここに到達するまでには、特にヨーロッパにおいて激しい宗教との闘いがあった。」(序文)
それはルネッサンス期から科学革命の17世紀にかけて激しくせめぎ合い、たたかわれる。ここで豊田氏は「自由」と一言書いているが、その自由とは人間の自由であり、閉塞した中世からの「人間」の解放であり、「人間」の復権であった。ガリレオは逍遙派のようにアリストテレスに依存し、その文献の解釈とスコラ的な論理的展開によって自然学を構築しようとはしなかった。落体の運動の実験は、何よりも人間の五感に直接に依拠し、立脚し行われた。彼は生身の人間の感覚の上に論理を構築しようとした。

豊田氏が学生に伝えようとしたのは、そうした近代物理学の立脚点だったのだと思う。
そしてそれをガリレオとそれ以降のマクスウェル、カルノー、ファラデーなどの研究と格闘を跡づけ、提示しようとしたのがこの小著だ。
「物理学の歴史はとりもなおさず物理学者の歴史であり、そこには人間のドラマがある。物理学者同士の葛藤があり、苦悩があり、喜びと栄光がある」(序文)と述べている。こうして彼は学校などで習う無味乾燥な物理らしきもの、問題を解くために公式や解法がまとめ上げられ、それを適用し、計算するという物理らしきものから私たちを解放し、人間のドラマとしての生きた物理学の姿を伝えようとしている。
そのために彼はガリレオの、ファラデーの、マクスウェルの生の言葉に触れるため、つまり彼ら自身に触れるために語学を学び、何度もイタリアに足を運んだという。

この本は小著だ。例えば山本義隆氏の大佛次郎賞を受賞した『磁力と重力の発見』(みすず書房)は1500ページを超える大部であり(超えていたと思う。)、その続編の『16世紀文化革命』(みすず書房)もまた1000ページを優に超える労作だ。それにくらべれば200ページなど本当にささやかな著作だ。
けれども豊田氏はこう述べている。
「本書の直接的な動機となったのは、1952年、はじめてガリレオゆかりのパドヴァ大学を訪れて以来、何度となくその地に足を運び、あるときは1年、ある時は半年とその地に滞在し、ガリレオに関する豊富な資料に接することができ、ガリレオを身近な存在として実感する好運に恵まれたことである。」
そして1973年中央公論社から豊田氏の責任編集で『世界の名著』シリーズの第21巻として『ガリレオ』が上梓され、1974年9月、ローマ大学でガリレオに関する講演を行った。その結果を湯川秀樹氏に報告。「物理学とは何か」というテーマで本を書いたらどうか、という提起がなされたとのだという。
そうして1998年、この小著の第1稿が起こされ、2000年11月に出版されることになった。
半世紀に及ぶ問題意識の持続と研鑽の上にたった200ページである。それを思うとき、私は粛然としてこの本を手に取る。

冒頭部分に私は「紙切れの上だけのことではなかった」と書いた。彼の講義にはこの格闘とその歴史が込められていた。字義どおりに、言葉どおりに彼の魂のようなものを込めて、伝えようとしていたものがあったのだと思う。それを中身もまだ良く分からないままに強烈に印象づけられたことある瞬間があった。
豊田教授の講義は情熱的な語り口などではない。淡々と冷静に、静かにはじまり、そして終わる。けれどもその空気の中に何かただならぬものは感じてはいた。その大きさと激しさを垣間見たことがある。
いつだっただろうか。季節も学年も覚えていない。私は大講義室の後ろの方に座っていたと思う。講義はいつものように淡々と進められていた。その途中、突然、豊田氏の言葉が途切れた。何か様子がおかしかった。顔色が土気色に見えた。誰も一言も発することが出来なかった。大丈夫ですか、ということすら出来ないような空気だった。黒板の縁でかろうじて身体を支え、やっと一言、「どなたか水をもってきてくれませんか」と言った。誰かが水を汲みにいった。そして何か錠剤らしきものを取り出し、服用した。その手は震えているように見えた。
ニトログリセリンだった。
狭心症の特効薬だ。つまり彼は講義の最中に狭心症の発作を起こしていたのだった。

狭心症は労作性などの場合、それほど深刻なものではないようだし、発作も比較的短時間でおさまる。とはいっても基本的に発作後は安静にするものなのだろうと思うが、豊田教授は静かに「5分後には講義を再開します。それまで少しだけ休ませてください」とだけのべ、そして言葉どおりに5分後には講義を再開した。
狭心症の発作を起こしてそのまま講義をするということが大変なことなのか、たいしたことではないのか分からない。けれどもその時、何か鬼気迫るものを感じたのは多分、私だけではなかったと思う。その講義の最中、学生たちは一様に張りつめた空気を感じていた。咳一つできないような空気だった。

後日、ある友人にその話をしたことがある。「豊田先生も頭悪いなぁ。そのまま休講にすれば学生も喜ぶのにさ」といった。その時、私は友人を一人失った。

彼のその講義の時に見せてくれた姿は、たぶん、ずっと消え去らないだろう。もうずいぶんと昔のことだ。けれども昨日のことのようでもあり、いまも生きている記憶でもある。その時わたしはきっと物理を学んだのではない。けれども物理学というものを学ぶということはどういうことなのか、ということを深く深く刻み込まれたのだと思う。

数学や物理について話をすることは多い。そのような時、ときどき豊田教授の、その時の姿を思い出すことがある。そしてその夜、彼の本を手に取る。私は何を受け継げているのだろうかと思う。何を伝えられるのだろうか、と思う。私は何を伝えられているのだろう、と思う。君たちに、何かが伝わっていますか? 何かが伝わっていればいいな、と思う。

でもそのまえに、まだまだ、もっともっと私も勉強しないとね。
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大学でのこと=4(予告) 豊田利幸名誉教授が死去

 名古屋大学名誉教授の豊田利幸氏が15日、多臓器不全で亡くなられた。享年89歳。
恐らく私がもっとも強い影響を受けた物理学者であると思う。
学問をするということはどういうことなのか、物理学とはどうあるべきなのか、自然科学に携わる者はどこに立つべきなのか、大学とはどういうところなのか。そのすべてについて強烈な影響を受けた。
直接の師弟関係はない。大学の大講義室での講義を受講しただけのことだ。けれども彼の語る物理学の内容、方法、思想、そして彼自身の存在が、いまにいたるも私の中にくっきりとした形をもって存在しているような気がする。

豊田教授のことを通して、このサイトに物理のこと、自然科学のこと、大学のことについて少し書いてきた。「大学でのこと」と題して3回にわけて書いてきた。それらは各々強い印象を持って私の中に刻み込まれている。
けれどもそれらの内容・方法・思想というものを決定的に刻み込んだのはあるときの講義の彼の姿だった。書こうと思って、まだ書いていなかった一つのシーンがある。それをいま書こうと思う。

これは予告編です。下書きをはじめているのですが、なかなか多忙で書き切れそうにありません。けれども豊田教授が亡くなって、とりあえず一言、ここに記しておきたく、中途半端なままの文章を掲載することにしました。ご容赦されたし。

しかしまずは、合掌。
ありがとうございました。
(高木)

大学のこと=3へ 少々訂正です

すいません。前項の投稿を少し訂正します。
ガリレオの「レ・メカニケ」はどうやら古いイタリア語で書かれているようです。ある本に「ガリレオが異端審問にかけられたのは「天文対話」がラテン語ではなくイタリア語=俗語で書かれたから」という趣旨の記載があり、同時に、その当時、カソリックの教義に反する内容でもラテン語=一般の人々が読めない、で書かれていれば大目に見られていたが、俗語=イタリア語やドイツ語、その他で書かれるととたんに審問にかけられた、という記載がありました。だから異端審問にかけられる以前のガリレオの著作はラテン語だと思い込んでしまったけど、どうもイタリア語のようです。
ということは豊田教授はラテン語を多少読めるかも知れないけれども、さすがにラテン語全般まではやらなかったのだろうと思います。
すいませんでした。まだ最終的に確認してはいませんが、一応、訂正しておきます。
それにしても、「レ・メカニケ」が書かれた当時のイタリア語はほとんど古語にというべきものだろうと思います。それを読み、翻訳をするところまで学んだのだから、すごいものです。
(高木)

大学でのこと=3

 豊田利幸教授の第1回講義のことを書いた。

 講義の内容について少し書いておきたい。
教養課程の力学の講義だった。その時にガリレオに触れたことがある。彼の「落下距離が落下時間の2乗に比例する」という発見をどのような実験で実証していったかということが述べられた。
Wikipediaによれば、「ガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。」とのことである。

 ガリレオの実験を豊田教授は概略以下のように説明したと記憶している。

 「ガリレオの実験は、斜めのレールに鈴が付いたゲートをつけて、そこを球体を転がした。つまりゲートを通るときに音が出るわけだ。そしてそのゲートを、音が等間隔で鳴るようにずらせていった。その結果、ゲートは下に行くほどの間隔が広くなった。それを実測して上記の比例関係を実証したということだった。」
言うならば、第1のゲートと第2のゲートとを通った時に鳴る音の間隔が単位時間になり、それを基準にして時間を刻んでいく。はっきりと捉えられない時間というものを、ゲートの間隔という空間的な物差しに置き換える実験だった。
「この当時、貴族の世界では音楽が大切な教養のようになっていた。耳は鍛えられている。実際にある程度の実験誤差はでるが、かなり正確な実験であった」と述べられていたと思う。

 このあと彼が話した内容が私の内部に響き続けるものとなった。

Pr.豊田「諸君らは物理の教科書などで、この落体の運動がストロボの連続写真で説明されているのを見たことがありませんか?」
学生「あります」
Pr.豊田「確かにあの連続写真は、落体の運動を視覚的に分かりやすく説明してます。けれども皆さんの中で、ストロボが一定の時間で等間隔に光っていることを確認した人はいますか? いないと思います。教科書を執筆している先生にもいないのではないか。ガリレオは違いました。多少の誤差はあるけれども、ガリレオは人間の耳という五感に訴えた。つまり人間の感覚に直接訴えた。これが大切なことなのです。科学は最終的に人間に帰着しなくてはいけないのです。ストロボというのような機械に、自分で確かめることなく、誰が確認したのか分からないようなものに依拠してしまってはいけないのです。何かの権威に寄りかかって、無批判にそれを信じるところに科学は存在しないのです。誰かがストロボをいじったら実験結果は全く違ったものになってしまうのだから。」

 このときの講義を聞いた学生の中で何人が彼の言葉を覚えているかどうか分からない。けれども、少なくとも私にはある種のインパクトを残した。その時は印象的というだけだったが、徐々にその言葉は力を持っていったと思う。
確かにその通りだと思う。
近代科学は巨大に成長した。しかし、その根っこの根っこには人間が厳然と存在しないといけないのだということだと思う。これが素粒子を研究し、理論物理を学び研究してきた学者の口から語られている。彼は人間と自然の関係の中にもう一度、物理をしっかりと位置付け直そうとしていたのだろうと思う。またそのパースペクティブの中で科学を捉えようとしていたのだと思う。

 

 さて、ここで先日書いた「ラテン語もある程度読める物理学者」と言うことに戻ります。
ガリレオの主著の一つでもある「天文対話」は「俗語」で書かれたが、「レ・メカニケ」の原典はラテン語だと思う。フランス語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語などのもとになるイタリアの古語。それをわざわざ学んだのだと思う。
とてつもないエネルギーだと思う。
そのことを思った瞬間、豊田氏は翻訳でしか読めない自分を認めなかったのだと感じた。つまり「(翻訳というような)何かの権威に寄りかかって、無批判にそれを信じるところに科学は存在しない」ということだったのだと思う。なんという首尾一貫した人生だろうと思う。嘆息して我が身を省みてしまう。
単純なことだ。
自分の目と、自分の耳とで、自分の五感と自分の直観で対象を、物事を捉え、自分で思考し抜く。とてもとてもシンプルなことだ。けれどもそれを徹底していくことは想像をはるかに超えて困難なことだ。
私は、特に理系の生徒には公式というものは自分で導出しろ、と要求する。間違いは自分で探せと要求する。物理では、自分で現象をイメージし、図に描き、グラフにし、そこから立式し公式と呼ばれるものまでたどりつけることを求める。例えそれが参考書に書いてあったとしても、自分で導出することを求めたりする。自力で解決しようとしないでもってきた質問は突き返したりする。
それは恐らく、豊田教授から学んだことなのだろうと思う。まぁ彼の域には到底及ばないけれど、私も自分で確認しなかった定理や公式は使うと気持ち悪い。とても生き方にまで徹底してはいないけどね。
でもきっとそれが数学や物理やそれ以外の理科=自然科学を学ぶ基本的な態度なのだと思う。学ぶと言うことはこういうことなのだと思う。そして自分で、ある意味では自分自身にとっての発見として法則や、定理、公式を捉えたとき、その定理や公式を考え出した、法則を見いだした人たちを「すごいなぁ」と思えるのだろうと思う。「すごいなぁ」と思ったとき、君たちはきっと500年の時間をこえてガリレオの隣に立っているのだと思う。

(なぜ学問的な書物が当時、ラテン語で書かれたのか、そしてなぜガリレオが異端審問にかけられ軟禁生活となったのか、ということについては『16世紀文化革命』(山本義隆)の「ヨーロッパにおける言語革命」の章で詳しく述べられています)

(高木)

大学でのこと=2

大学1年生の時。教養課程用の物理の講義をとった。そのときの講師が豊田利幸教授だった。
第1回講義のシーンを鮮明に覚えいている。度肝を抜かれた。大学とは何と恐ろしいところだろうと震撼した。

1年生の第1回の講義の冒頭はこういうことから始まった。
Pr.豊田「諸君の物理の講義をこれからはじめます。ここには中国からを含めて幾人かの留学生もおり、一緒に受講しています。そこで平等を期すために、授業を何語で行うのか諸君らで決めてください。英語で行いますか?ドイツ語、フランス語、留学生がいるので、中国ですか?それとも日本語で行いますか。どれで行うか選んでください」
学生、沈黙。凍り付いたような空気というか何が起こっているのか事情が把握できないというか、そういう空気だった。
…ドイツ語?中国語?どういうことですか、それは?????

Pr.豊田はここで物理学というもの、自然科学というもの、学問というものについて何か話されたと思う。うっすらと記憶があるが、あるいはそれは別の時の話が混入しているかも知れない。
そして再度、Pr.豊田が学生に返答を促した。
答える者がいない。
それはそうだと思う。1年生が大学に入っていきなり「何語で授業をしますか?」と聴かれたのだから驚くほかない。何を尋ねられているのか、全く分からなかった。ただただ「いったい大学と言うところはどういうところなんだ?」という感覚だった。

しかも教授の雰囲気はとてもじゃないけれど冗談を言っている雰囲気ではない。豊田教授の授業で私は一言も冗談というものを聞いたことがないと思う。そういうタイプではない。
そしてついに彼は「では私が決めても良いのですか?」と言い出した。誰か何か言ってくれないかな、と思っているとき一人の学生が「あの、やっぱり日本語でお願いします」といったと思う。さすがにマズイと思ったのだろう。
Pr.豊田「他に意見はありませんか? 日本語で構いませんか?(一同、沈黙) わかりました。では授業は日本語で行います。」
講義室に安堵の空気が流れた。けれどもそれはまたすぐに別のものに変わっていった。

Pr.豊田「では、学生諸君からの要望で講義は日本語で行いますが、中国からの留学生たちと公平を期すために、テストは中国語で行います。」
中国語?え?
教室がざわめいた。冗談とも思えなかった。

半年後、前期のテストがあった。
確か、1問は積分して球体の回転モーメントを求める問題だったと思う。他にも1,2問あったかな?
問題文はすべて中国語だった。彼は有言実行の人だった。

 


最近、古本で豊田氏の本を2冊購入した。
一冊が『物理学とは何か』(岩波書店)。もう一冊は中央公論社の『世界の名著』のシリーズの21巻、『ガリレオ』。
この『世界の名著』のシリーズは、通常、前書きとして60、70ページくらいの解説が掲載されている。その思想家の概略が描き出されそれを踏まえた上で原典を読もうとするものだ。いくつかもっていたし、読んだ記憶がある。
しかしこの『ガリレオ』はかなり様相を異にする。
冒頭の解説は「ガリレオの生涯と科学的業績」と題され、216ページに及ぶ大論文となっている。小さい文字の2段組の紙面だから通常の判組みの本であれば優に300ページを超えるような論文だ。
それの補注を見ていて驚いた。
彼はガリレオの主著「レ・メカニケ」をどうやら原典から訳出したらしいのだ。ということは豊田氏は英語、ドイツ語、フランス語、中国語以外にイタリア語、さらにはラテン語もある程度はできるということになる。おそらくロシア語もできるだろうと思う。核物理の文献でロシア語のものがある程度あるからだ。

(ラテン語というのはイタリア語の古語みたいなものです。ルネッサンス期まで学問的世界はすべてラテン語が支配していた。ドイツ語や英語の学問的な、神学的、哲学的な著作は基本的に書かれていない。それらは俗語として、神聖な書物を書くに足りる言葉だとは考えられていなかった。ニュートンの「プリンキピア」もラテン語です。英語ではない。)

物理学者ですよ、彼は。唸ってしまった。ラテン語まで読める物理学者が一体どれほどいるだろうか? 私は寡聞にしてしらない。唯一、もともと理論物理の研究者だった山本義隆氏が「磁力と重力の発見」「16世紀文化革命」という中世から近代への転換点を捉えた浩瀚な書物を書く際に、ラテン語を勉強したらしいが、そのくらいしかしらない。
恐らくは豊田教授のガリレオへに対する関心の強さ、その内部を捉え尽くそうとする情熱の強さが言葉の壁を越えさせたのだろうと思う。強い意志と、激しい知的欲求だと思う。
しかしそれだけではないことにきがついた。実はこの姿勢の根っこに彼の自然科学へのスタンスと共通するものがある。
最近というのは、この「ガリレオ」を手にとってということ。つまりはこの10日くらい前に気がついたと言うことです。
先に書いた第1回講義の冒頭シーンは、ずっと私の脳裏に強烈な印象とともに焼き付けられてきたものだけれども、それが自然科学への態度と同じだということに20数年を経てようやく気がついたというわけだ。
豊田先生、すいませんでした。やっと気がつきました。
では、自然科学とは何か、そして何が共通するのか。
これはまた続きで。

(高木)

南部陽一郎、小林誠、益川敏英三氏がノーベル物理学賞を受賞=大学でのことをほんの少し

 南部陽一郎、小林誠、益川敏英の三氏がノーベル物理学賞をとった。
小林氏は明和高校から、益川氏は向陽高校からそれぞれ名古屋大学理学部に進学したとのこと。南部氏は違うけれど、小林、益川の両氏は名大の坂田教授(故人)の薫陶を受けたとのことだった。

坂田さんは湯川秀樹氏とともに素粒子論で大きな仕事をした。ノーベル賞は取り損ねたけれどもね。70年に亡くなられているから、理学部でときどき名前を耳にすることはあったくらいだった。

私が浪人したとき、それまで工学部志望だったところから名古屋大学理学部(物理学科)の志望に変わったのはある本で丹生潔さんの存在を知ったからだった。丹生氏もまたノーベル賞を取り損ねてしまった人だと思う。とっておかしくない研究成果を出していた。

ノーベル賞はすごいですね。

私は名大で他のだれよりも豊田利幸教授の影響を受けたと思う。直接の指導を受けたわけではない。教養部で授業を受けただけだった。もっとも個人的に少しお話を伺う機会はあったけれども覚えてはおられないだろうと思う。
豊田氏からは、具体的に何かを指導されたというよりも、物理というものが、あるいは自然科学というものが根本的にどういうものなのか、どういうものでなくてはならないのか、ということを学んだと思う。その存在も含めて大きな影響を受けた。
しかしその意味を噛みしめることができるようになったのはずいぶん後になってからだと思う。最初も強いインパクトがあった。いまも強烈に覚えいてるシーンがいくつかある。けれども自分の内部でそれが熟成し、大きな力を持つようになるためには時間が必要だったと思う。そしてその力は私の自然科学についてのものの見方、捉え方を根本から、根こそぎひっくり返していったと思う。
この場を借りて、少し書き残しておきたいと思う。少々長くなるかも知れない。(以下 続く)

なんだかノーベル賞受賞がただの前振りになってしまってすいません
(高木)

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