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ある予備校の授業

 先日、個別指導の中で、ある浪人生からある大手予備校の英語の授業のあり方を聞いて驚愕しました。それは英語の授業ではありませんでした。英語、英単語がならんでいる紙をつかって、世の中に存在しない、英語ではない何かを教え込もうとしているような気がしました。しかも「人気講師だ」と聞いてもう一度びっくりしました。

 本当に何度も何度も生徒にはいうけれども、「受験数学」や「受験物理」などという特殊な数学や物理など存在しないのです。それはどの教科でも同じ。
 ただ、時間制限と、とるべき点数と対象となる範囲が定まっているだけのこと。貫かれているものは数学は数学であり、物理は物理であり、世界史は世界史である以外にはないのです。2次方程式の解の公式は、大学生だろうと数学者だろうと高校生だろうと同じなのです。運動方程式のF=maは、ニュートンでも物理学者でも、F=maです。ただ深さ、捉え方が違うだけです。大学の教科書だったら左辺が∑が付き、Fとaがベクトル表記されるだけです。まぁaがdv/dtとされているかな。微分方程式になっているから。でもそれだけです。

 現代文でも、なにか特殊な読み方などたぶん、ないのです。

 けれども世間にはそうではないものが満ち溢れている。読まずに解こうとする国語、数学ではない「数学」、物理ではない「物理」。暗記物と称される社会。あるいはそういう誤解を受けている生物… それらは国語を、数学を、英語を、自然科学としての物理や化学、生物を、人間の生きた学問であるべき歴史や政治、経済を破壊していく。本当に文字通り「破壊」していく、と思えてならないことがあります。よってたかって生徒の知的な力を破壊していっているように思えてならないことがあります。

 大学の入試ということから考えても、そんなことを要求してはいないのに。
 社会を暗記物だと思っている人は、例えば一橋大の入試問題を見てみればいいです。例えば日本史。大問3問で、各大門に小問が3問から5問。各大門は400文字の記述です。そして小問ごとの文字数は指定されず、自分の判断でボリューを決定する。
 内容は、「平安京は中世になっても日本も中心都市としての地位を守り続け、人口は数十万人をこえたとされる」というところに下線が引かれ、「下線部(2)に関し、中世の京都において住民のあり方や構成がどのように変化していったかを説明しなさい」という設問になっています。
 当然、様々な知識は知っていなくてはいけない。けれども、ただの丸暗記でこういう内容に答えられるわけがありません。大学側も、よくわからないまま、ただ丸暗記しているという学生が欲しいわけではありません。だからどうやったらもっとよく理解し、自分で考えぬく事が出来る学生を選ぶのか考えて問題をつくります。

 現代文の読み方にまでマニュアルが登場してきます。数学や理科でも溢れかえっています。(無論、全部がそうではありません)。そうしたものは、端的にいえば「自分で物を考えなくて良いのだよ、苦労して頭を使わなくて良いのだよ、理解などしなくてもテストの点数さえ取れたら良いのだよ、よく分からなくていいから言われたとおりにやりなさい」と言っているようなものです。そんな勉強ならやらないほうがマシです。やればやるほど「知的なもの」が失われて、頭脳が「退化」させられていくとしか思えません。そうした状況の中に置かれている生徒は、本当に必死に本来の「学ぶ」ということのあり方を構築・再構築しなくてはなりません。

 日々の個別指導は、そうした全状況を相手にして、戦っているようなものです。
 それにしても「英語なんてできなくていいんだよ、読めなくていいんだよ、ただ『入試の英語』で点数さえ取れたらいいんだよ」言わんばかりの「大手予備校」の「人気講師」のこと、英語をちゃんとおしえている講師ではなく、そこに受験生がこぞって集まること。そんな情景を想像していると、だんだん驚くよりも暗澹たる気分になってきてしまいます。

 まぁ、これは愚痴かもしれません。けれども生徒の皆さんには、自分の学習のあり方、方法、そもそも勉強するということはどういうことなのか、よく考えて欲しいと思うのです。自分が当然だと思っていたことが、まったくそうではなかった。そういうことは、よくあることなのですから。
(高木)
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センターこそ、じっくり腰を据えて問題にかかろう=指導の現場から

 以下は実際にある生徒がセンター用の問題を解いているところを見ていて気がついたことです。
ある程度の力があるが、どうもセンターの問題になると上手く捌けない、時間に追われてギクシャクした感じになる、と言うような生徒、また、問題文の誤読、読み飛ばしが多い生徒は、逆に一度、速度を落とすつもりで解いてみてください。ひょっとするとスルスルと解けるかもしれない。
結果はその生徒によって違うからやってみないと分からないけれども、いろいろ工夫することが大切です。力をつけるよりも、具体的にその力を発揮する方法を考える方が効率的であることは間違いないのだから。

***


今回、センター用の問題を解いているのを見ていて気がついたこと。

これは数学と物理の問題だが、

①1回目、妙に早く問題を読み終わる、2回目も。
しかしこの段階で問題の全体を把握していない。
そこから視線が問題文のあちらこちらにかなりランダムな感じで飛び始める。そうなると各条件が、その前後の脈絡から離れた形で、つまり別の文脈で把握され、本人の内部で再構成される
だから時間がかかった上で誤読が生じる。

②原因の一つは「焦り」。自分は遅いと思っており、一読する時間を、人間がものごとを理解できる速度を超えて短縮している。しようとしている。

③実際に捌いている速度は遅くいない。むしろ早い。
これも問題で、バタバタしている感が強い。Aさんの場合、本当は「遅い」のではなく「早すぎる」という面がある。 だから把握できず、何度も見直すことになり、そのため遅くなっている。見通しが立たないまま、バタバタやっているから途中でデッドロックに突き当たり、通り抜けられないようになり遅くなっている。

例えば、図形の線分の長さを求める問題で、実質的に未知数が2つの方程式を捌く形になっているにもかかわらず、方程式の論理から把握されず、何か一つの式で解けるのではないか、解けないなぁ、と漠然と思い込み、そこでジタバタしてる。これでは原理的に絶対的に解けない。
未知数が二つだな、と冷静に判断していればもう一つの条件式=方程式をどこから引き出すのか、引き出せないなら別の解法を考えなくてはいけない、という思考が働かない。それを指摘して、問題文を最初から検討し直したらすぐに解けた。と言うことは本来はすぐに解けるし、解くだけの力はあると言うこと。

④課題は、逆に<速度を落とす>こと。じっくり構えること。止まって考えるべきところで止まること。それができればそれこそ10分くらいあましてⅡBでも解ききれる。

⑤これは別の教科になると、逆に遅く読み過ぎることがある。遅く読み過ぎて、そのことで前後の文脈が解体され、論理が見失われる。
遅すぎる、ないし、早すぎる。適度なテンポ感を獲得すること。
具体的な演習の中で調整する必要がある。適度なテンポ感が本人の内部にない以上、自覚にまかせてもこれはなおらない。講師が判断し、修正する必要がある。

***

この事例は、複数の生徒に見られたものです。
かなり一般的に陥っている課題だと思います。センターはスピードが勝負。だからこそ腰を据えて、じっくり解く、そういういわば逆転の発想が必要なこともあるよ。
(高木)

再び、かな? 手を動かすこと 試行錯誤すること

これはある講師にうったメールをブログ用にリメイクしたものです。

夏休みにクラス授業がありました。一つ発見がありました。指導に還元してください。

生徒の多くが手が動きません。本当に手が動かない。その生徒たちの手が動くのは、問題が捉えられてこうすればいいということが分かってからです。
ここに大きな課題があります。なんというかな、泥臭く問題に分け入っていくことができないのです。手が動かない生徒はほとんど同じ状態だと思います。

生徒とやりとりしましたが、<問題を解くこと>と<問題の解答を書き上げること>が同じになっていて、後者しか自分はやっていないと思う、といっていました。
つまり、条件を書き出し、式をいじり、図を描き、グラフにしてみる。またそれを描き直してみる。そういうプロセスが非常に弱いのです。
問題をつかみ、入り口を見つけるために手を動かす、ということをこれまであまりやったことがないのです。力があるとそれである程度解けてきてしまうのです。だから問題を捉え解くこと=解答を書くことだと思っていました。違いますよね?その手前のところが決定的に大切です。
できない生徒ではないです。むしろ良くできる生徒です。しかし壁に直面しています。私は今回、その壁を突き抜ける道を見つけたと強く感じています。これで突破できると確信を持ちました。

講師はちょっと意地悪になってください。
極端に言えば、教えない自分で考えさせ、試行錯誤させ、発見させるような指導をお願いします。泥臭く手を動かしてみることを覚えさせてください

クラスをやって本当に良く分かりました。
確率漸化式などで結構厄介なもの、なかなか法則が見つけられないようなものがありました。私はn=10までを3回数えなおしました。約20分。最初、スマートに解こうとして、いくつか試行錯誤して道が見つけられず(後から発見しましたが)、仕方ない、いったん数えてみるか、と数えました。1回目に何となく法則を掴み、少し整理して2回目にそれがはっきりして、3回目は立式する観点から整理しました。つまり30回数えているわけですね。思いっきり泥臭くやりました。けれども30分以内には解けています。まぁ許容範囲内ですね。凡人には仕方ないです。
でも生徒たちはn=3とか4とかを1回数えて「わからん」と言っている。
「そりゃ当たり前だ」と言いました。私が泥臭く30回数えているなら、君たちは50回くらい数えなさいと言いたいところです。言いたいだけでなく、実際に言いましたが。
けれどそれが現実です。

泥臭く手を動かしてしか発見できないことがあります。
それを生徒に味あわせてください。
ある生徒は、自分は解答をつくっているけど、問題を解いているという実感がない、本当に自分は問題を解いているといえるのかな、と時々思っていたといってました。ここがカギだと思います。

* * *

 これは相当普遍的な課題だと思います。思いあたる生徒はたくさんいるのではないかな?
 私は大型の融合問題などだと1問解くのにA3の紙を3,4枚使います。これは昔から変わりません。受験生だった頃はノートをつくらない主義だったこともあって(これはまねしたらダメですよ)、毎日20枚とか30枚くらい使っていたのではないかなと思います。ボールペンが1日4,5センチくらい減るくらいだったから。そして問題が解けない方がたくさん紙を使いました
 いまみんなを見ていると、ペンや紙の消費量が極端に少ないと思う。そして解けないときはほとんど何も書かれないままになっていることが多いです。

 多ければいいわけではないけれども、たくさん書いているということは、それだけ自分に刻み込んでいるということだと思う。そうやってしか身につかないものが必ずあります。ここをさぼったらダメだよ。

(高木)
 

分からないことは たくさんある=学ぶこと

 いま夏期講習で忙しくてちょっと中断しているけれども、リチャード・ファインマンという物理学者の『物理法則はいかにして発見されたか』という本を読んでいます。岩波現代文庫です。ノーベル物理学賞の受賞記念講演で、物理学とは何か、数学と物理との関係はどういうものか、物理法則とは何か、そんなことが書いてあります。高校生でも十分読める本です。なかなか面白い人で、いろんなもの書いています。

 私たちに分かっていること、分かっているととりあえず言えそうなことは本当にまだまだ少ない。そんなことを感じて欲しいなと思うことがあります。
 例えば物理法則として有名な慣性の法則。ニュートンの第一法則ですね。外力が働かなければ、静止しているものは静止し続け、運動しているものは、そのまま同じ速度でまっすぐに進み続けようとする。そういう「当たり前」の法則です。なんの力も働いていないものが急に動き始めたりしたらかなり困ります。

 けれども、「なぜ等速直線運動をしているものはそのまま運動し続けようとするのか」という問いにすら物理学はこたえることができないのです。なぜなのか分からない事柄の上に、それを大前提として物理学は存在しています。
 ニュートン以前の自然学は、その「なぜ?」を考えるものでした。しかしニュートン=近代物理学の確立は、その「なぜ?」を封印したところに成り立っているところがあります。とりあえず目の前の現象をしっかり説明できるなら良し、とするわけです。実験結果、観測結果と矛盾せず、これまでつくられてきた理論との整合性が着いていれば、差しあたり良いということです。
 わからないことは本当にたくさんあります。
 きっと正解がはっきりしないことの方が膨大に存在します。いや正解以上に、問題が設定されることの方が大切な場合が多いのです。

 目の前に起こること、目の前といっても実験データだったりするわけですが、それをまっすぐに捉えて、そこからいろいろなものを読み取って、どういう論理が働いているのかつかみ出す。ちょっとおかしなデータがあったりします。その時、そのデータに何かがそこにあるのか?と思う人と、都合が悪いなと思って無視したり、切り捨てたりすることとの間は思っているよりもはるかに微妙です。理解されないものは認識されなかったりするから。
 だからどんな教科でも、プロセスを大切にして欲しいなと思います。「正解」にそれほど意味があるとは思えない。むしろ、事実を自分の知識と思考力で捉え、そこに論理を見いだし、それを展開していくこと、それが大切だと思う。そんな力を身に付けていくことを考えて勉強して欲しいと思う。

 学校の先生や私などが教えたりすることは、必ずしも絶対的なのではないよ。教えながら、どうしてかな?と自分の中で疑問がわくことだってある。慣性の法則だって、どうしてですか?ときかれると答えようがないんだ。答えようがないことを、いまの段階では答えがないと明確にさせることも「科学」の役割の一つです。分からないことを分からないと言えることはとても大切なことなのです。それはとても『科学的な』態度なのです。
(まかり間違っても、適当に勉強すればいいということではないよ。念のため)
(高木)



 

勉強することの意味

 勉強はなんのためにするのだろう? みんなあまり口には出さないけれど、こういう疑問をふと抱くことがあると思う。
 裏返しで、まだ目標(例えば志望校とか将来の職業とか)が決まっていないからどうしても勉強に身が入らないという声をきくこともある。

 目標が決まれば良いな、と思う。相談事でも少なくない。確かに目標が決まれば受験勉強の方針や戦略はすっきり立てられる。どのくらいやらないといけないのかゴールまでの必要な量や、要求される質もある程度目安ができる。

 でもちょっと疑問もある。
 以下、指導の中で書いたものです。かなり手を加えてるけど。

続き・あります。クリックしてください

英単語を覚えよう(まぁ、古文もね)

 まぁ本当に当たり前のことだけれど、単語を覚えよう。春休みは良い機会です。これは1年生も2年生も受験生(新学年の)も同じです。

 単語を、本当に全力で覚えてください。覚えられないなどと言うことは絶対にないよ。これは筋トレのようなもの。やったらやっただけ筋力がつきます。スポーツでいえば何かの技が練習してもどうしてもできないと言うことはあるかもしれないけれど、筋トレができないということはないよね? 必ずできることです。やり続ければ必ずできます。必ず覚えられる。ある筋力をつけるなら、それに必要な量のトレーニングがあるように、必要な量を覚えるには必要な量の暗記の勉強がいる。それだけの、とてもシンプルなことです。シンプルなことをシンプルにやるだけです

 単語は、まず500くらい覚えきってください

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2次関数・2次方程式・2次不等式 徹底的にやってみましょう

 毎日、クラス授業や個別指導、あるいは質問、そのやりとりを通して私たちも様々に学びます。
毎日、ご家庭に送られる指導の履歴を書いていて、これは全員に伝えた方が良いなぁと思うことが多々あります。
 そこでその内容をブログにアップしていくこととしました。自分たちの学習や学習方法を考えていくための一助としてくれたと思います。
(なお具体的な生徒に即して書いたものをリメイクしていますから、原文とは少し違うことがあります)


 「まぁそれくらいはできるよな」と思われがちな2次関数・2次方程式・不等式。しかしこれが高校数学のすべての土台です。ここに高校数学のエッセンスの多くが集約されています。そして本当のところは意外にできていないのです。今年の東大でもモロに2次関数という問題が出されています。当然、それ相応に厄介なものになっています。2次関数・2次方程式は深いのです。そして不等式になるとさらに、です。

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