以下の文章はかなりヘビーなものです。けれどもいま直面している課題でもあります。思いあたる生徒もいると思う。その場合は、本当に自分自身の思考のプロセス、内容、そうしたものを根こそぎ変えてしまうようなことが突きつけられることになると思う。また実際の指導の中でそうしたことに直面していると思う。その課題について少し書いてみました。
この1,2年、いやもっとか。言葉について考えさせられることが多い。主語と述語、主節と従属節、順接と逆接。そうしたもっとも基礎的なことがらが崩れ去っているケースが目出す。論理が言葉の規則の上にのっている以上、言葉の統辞法のレベルでの崩れは、論理そのものが成立する根拠を失わせる。
いま読んでいる哲学者の鷲田清一が「哲学が小難しい概念的展開だけに堕してきてしまった」という趣旨のことを述べ、「聴くことの意味と力」を主張し、臨床哲学を提唱する。それはそれでいい。けれども、事態は彼の想定を遥かにこえて深刻なのではないか。
身体は、表情は、呼吸は「論理」たりうるだろうか。
確かに身体にも、表情や呼吸にも、あるいは言葉の肌理にも、論理は宿る。それらは具体的であるからこそ豊かに様々な含意や可能性を開示する根拠になるだろう。けれども、それらはメタレベルを現しうるか。現し得ないのならばメタレベルの思考はやはり言語を介在させる以外にないのではないか。つまり抽象的なことを抽象的に表現する場がそこにあるのか、ということだ。それがなくなってしまうことがどれほど深刻な事態であることか。
鷲田はおそらく、そのメタレベルに道を開くことのできる言語の成立根拠を問うているのだろう。あるいはそうした問題意識を含んでいるのだろう。
けれども私には彼が考えている地点がとてものどかな、牧歌的なところに思えてならない。それは「哲学の死」どころではない。敬語表現やいわゆる「言葉の乱れ」などという次元でもない。もっと言語の言語としての存立そのものの基盤である統辞法の解体とでもいうべき事態の進行なのではないかと思える。
少し前に市川伸一氏の学習論(例えば『勉強法が変わる本』など)を読んだことがある。また実際の学習カウンセリングの現場からのレポートや論文も少しだけれども目を通した。参考になることは多い。とても多いと言っていい。そこでも学習において「カウンセリング」が必要な子どもたち、生徒たちが登場するが、それもまた長閑な、牧歌的なものに見える。
例えば書かれている文章と、それを読む側で分節構造がずれていたらどうなるか。英語でスラッシュを入れて文の構造を掴みながら読むやり方があるが、スラッシュの入れ方が間違っていれば文章の正しい解釈はできない。同じことが日本語で起こっている。これは国語力といえばそうだが、国語という教科のことを言っているのではない。例えば数学でも同じだ。日本語だけではなく、数学にも理科にも起こっていると思える。
問題文の条件を書き出しているときの目や手の動きを見ていると、明らかにその問題文の文節の構造、数式の構造、条件と帰結の関係などと無縁の動き方をしている。
例えば等式を=の左右を各々の塊として捉えず、○○△△□=■●▲▲◆◆という等式があった問して、それを書き出すならば丸ごと一つとして書き出すか、左辺、右辺ごとに書き出すのが合理的だろう。けれども、○○△△□=■●▲で書き出している手がとまり、▲◆◆だけが独立してまた書き出される。本来の等式の構造がぶちっと切断されたところから再構築がはじまる(あるいははじまらなかったりする)。
少なくとも書き出しているときに働いている思考は、数学の論理と異質だ。端的に言って数学の論理の要請にしたがって数式を捉えてインプットし、アウトプットしているのではなく、一見して記憶しできるユニットの大きさに即して対象を切断し、移し替え、貼り付けて「再現」している。その時、書き写された数式はもとのものと同じ姿をしている。けれども、それはすでに根本的に異なる論理の上にのせられている。
あるいはいつのまにか等式の等号を書かないで、紙上には○○△△□と■●▲▲◆◆が独立しているかのようにして書かれている。「等号は?」と聞くと「いや頭の中にあるから」などという。ここで数学の論理は完全に切断されている。頭の中にあるからでいいのか?等号は右辺と左辺の関係を規定しており、その関係に論理が存在している。論理とは何かと何かの関係にこそ存在するからだ。
だから等号を書かないことは、その論理を切断することと等しい。そして「頭の中にある」という形で別の論理を作っているといって間違いない。
この生徒は、こういう「手抜き」の表記を中2くらいから初めて高校3年生まで延々と続けてきた。そうやって自分の内部の数学的論理を突き崩してしまい、等式の同値変形ができなくなっていた。
では、等号を書くようにすれば戻るのか?
戻らなかった。
まず等号をきちんと書く(つまり右辺と左辺の関係を明確にさせる)ことがなかなかできるようにならない。巨大な習慣の力がすでにガッチリと根を張っていた。
それに結局、いつまでも等式の同値変形が通常の求められるレベルでできるようにならなかった。
数年間かけて自分の内部の数学的論理を解体し、かわりの数学できはない何かを作り上げてしまってきていた。数学という一つの「言語」の解体の場に立ち会ったような気分だった。全力を尽くし、問題点を解明し、提示し、格闘したが、それは成功したとは言い難かった。
このとき正しいことを教えるだけでは解決しないということを思い知った。間違って作り上げられたものをいったんは徹底的に破壊しなければ、数学的に正しいことがほとんど入っていかない。そうした事態に直面した。G・バシュラールの認識論的障害と認識論的切断という概念が身につまされて理解できた。
いまも日々、直面している課題だ。おそらく今後ますます増えるだろうと思う。
これはもう学習方法とか解法とかというレベルの指導では太刀打ちできない。いわば思考のプロセス、思考すると言うことそのものにかかわっての課題だというべきだろうと思う。
現れは本当にささやかなものだ。微かな匂いのようなものだと言っても良い。微かな匂い、違和感をともなったそれを感じたときには、本当に全力で生徒の内部のプロセスにアクセスしないといけない。その現場からスタートするしか出口はない。
この格闘のプロセスは講師にも苦しいが生徒はもっと苦しいと思う。本当にいままで積み上げてきたものをいったん壊さなくてはならない。そのことの苦しさは想像を超えるだろうと思う。けれども、それしか道はない。この確信は間違っていないと思う。
そうした課題に直面したら、全力で、すべての力を振り絞って格闘して欲しい。私も闘うから。
PS
課題だけ書かれて、解決策がないではないか、といわれたら、確かにそうです。ヒントだってないかもしれない。
けれども、課題がはっきりすることは、その解決への第一歩、避けて通ることができない決定的な一歩です。そのためになれば、と思います。
苦しいのは君だけではないんだ。
(高木)
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