先日のニュートリノが光速を超えたということで文章を書く時に、ノーベル物理学賞をとったファインマンの本(『物理法則はいかにして発見されたか』岩波現代文庫)からの引用した。その時、次のような文章を見つけた。
物理法則が発見されるプロセスについての考察だけれども、それは物理学の研究にとどまらず、ものごとを学び取ることの、受験勉強も含めた学習一般についての示唆を読みとることができる。
「量子力学は2つの独立な仕方で発見されました。これはひとつの教訓になります。こんども、いや、前にもましてというべきでしょうが、実験によってものすごい数のパラドックスが発見されました。既知の法則からはどんなことをしても絶対に説明できない現象がたくさん発見されたのです。知識が不完全だったのではありません。完全すぎたのです。これはこうなるはずだと予言ができる。しかし実際はそうならなかった。」(p250)
ここからこの「既知の法則」と実験結果の矛盾を解決するものとしてシュレーディンガーとハイゼンベルクの新しい「二つの哲学的な方法が結局は同一の発見(=量子力学の発見)に導いたのです。」(p250)
「一つの理論をめぐる哲学なり概念なりが、理論の小さな変更によってひどく変わることがあるという点です。たとえばニュートンの時間・空間の概念ですが、これは非常によく実験にあっておりました。ところが水星の軌道をほんのわずか直して正しい答えにするために、理論はその性格からして大きく変更されねばならなかったのです。その理由はといえば、ニュートンの理論がとても単純かつ完全であって、明確な結果を生み出すものだったからであります。ほんのちょっとだけ異なった答えをだすためには、完全に異なった理論が必要であった。新しい法則を始めるには、完全なものに傷をつけるのではいけない。別に一つ完全なものを作らねばなりません。そのために、ニュートンとアインシュタインの重力理論の間には哲学的な考え方にどえらい違いができるのです。」(p260)
ここでファインマンは、「現象が予言できるくらいに知識が完全であること」、「理論が単純かつ完全であること。そして明確な結果を生み出すものであること」の大切さを述べている。
これはとてもとても大切な事だと思う。
曖昧な認識は、間違っているとも間違っていないとも言えない。だから修正されることもない。シャープに、くっきりと物事を、あるいは論理を掴むとき、それが適用できない場合、間違いになる場合も、同じ程度にシャープに、くっきりとしたものとして浮かび上がる。そして次の、より包括的な、より根本的な認識と論理にたどり着く条件が生まれる。こうしたことは日々の学習の中でも、ほとんど同じように貫かれている。
学力のある生徒ほど物事を曖昧にしていない。微妙な論理のズレや齟齬に敏感に反応する。まぁだいたいこんな感じという処理をしているかぎり、間違いは表面化しない。それではいけないとファインマンは言っているように思う。
確かに高校までに習っていることは、あるいは受験の中で向きあうものは量子力学とかアインシュタインの相対性理論とか、そうした大きなものではないかもしれない。けれどもよく考えてみると、一人ひとりにとって物理法則は、いや物理法則に限らないけれども、そうしたものは「発見されるべきもの」としてあるとも言える。まだ一人ひとりにとってそれは存在していない。その存在していなかったものを、自分のプロセスの中で自分にとっての「発見」をする。そうしたことが大切なのだろう。誰かに教えられたものwお丸呑みするのではなく、自分が学び取り、見付けだす。それは誰かがやったことだけれども、それを自分のものとして体験していく。そんなあり方を求めていきたい。
(高木)
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