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本番

国公立2次、本番。

祈ること。
信じること。

もうそのくらいしかできない。

でも、少し暖かくなってよかった。

高木
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ニュートリノが光速を超えた??

 ニュートリノが光速を超えた?

 いま、このニュースが駆け回っている。私はTVを見ないから、その騒ぎの大きさはよく分からないところがあるけれども、twitterではとてつもない勢いでコメントが吹き出してきている。
 この実験を行ったのは"CERN - the European Organization for Nuclear Research"という国際的な研究機関の「国際研究実験OPERA」というグループだ。ここには日本からも名古屋大学、愛知教育大学、神戸大学、宇都宮大学なども参加しているらしい。実験に参加した名古屋大の小松雅宏准教授という方のコメントが出ていた。

 できればみんなもこのニュースを追いかけてみたらいいと思う。一生かけてもお目にかかることができないことに出会えるかもしれない。

 いま現役の物理学者なども含めてtwitterで猛然と議論が吹き出しているのも、つい先程、CERNのセミナーが終わったからだ。懐疑的な意見が多い。まぁ当たり前だ。
 ニュートリノが光速を超えた… 細かい内容はニュースなどでも出ているけれども、この結果には実験をした当事者たちも非常に驚いたはずだ。ありえない、と思っただろうと思う。だから半年かけ、1万5000回もさらに検証のために実験を繰り返し、それでもほぼ同じ結果が出るので公表に踏み切ったということらしい。それほどその結果はおどろくべきものだ。そしてCERNでは、すべての実験データを公開するから検討してほしい、と全世界の物理学者に呼びかけている。

 近代的な自然科学の出発点をどこに定めるのかは様々な議論があるだろうけれども、ニュートンの『プリンキピア』がその一つであることに異論はないだろう。『プリンキピア』=『自然哲学の数学的諸原理』、ラテン語の原題を "Philosophiae naturalis principia mathematica" という。"principia"=原理。英語の"principle"だ。1687年に発表されている。近代物理学の軸となる力学は、ガリレイ、ケプラーを引き継いだニュートンが打ち立て、ライプニッツが確立した。さらに解析力学を創り上げたラグランジュや電磁気学を確立するマクスウェル、熱学を切り開いたカルノーらによって近代物理学はその陣容を整えていった。

 その出発点的な位置にあった『原理』が覆されたのが1905年のアインシュタインの特殊相対性理論の発表だった。1920年代にかけてのアインシュタインの一般相対性理論への理論的な拡大とハイゼンベルク、シュレーディンガーらによる量子力学の確立は、近代物理学を根本からひっくり返した。根本から、つまり原理的な転換だった。そこでは空間、時間、質量といった物理量の根幹をなす基本的な概念・量についての定義自身が大きく塗り替えられた。巨視的な宇宙についての考え方、微視的な粒子についての考え方、その両方が一挙に覆されていった。
 時代は第一次世界大戦からロシア革命をへて激動の1920年代。美術や文学でもシュールレアリスムが登場し、音楽でもシェーンベルクの12音階技法などがそれまでの音楽理論の枠組みを破壊した。それまでになかった様々な動きが一挙に吹き出すようにして生み出された時代に現代物理学も出発した。
 そしてその空間・時間などについての全く異質な理論は、デカルト以来の近代的な世界観=ものの捉え方をも突き破るものであり、例えば哲学者のカッシーラーなどはアインシュタインの相対性原理の哲学的意義のために大著を記している。

 アインシュタインの特殊相対性理論は、相対性原理と光速普遍の原理に立脚し、ローレンツ変換とミンコフスキーによる4次元空間の把握を媒介に時間・空間・質量を再定義し、ニュートンの運動方程式を全面的に書き換える。その結果、光速以下の物体を光速を超えて加速させることはできないという結果が帰結されてくる。物体の速度が光速に達した時、その質量が無限大に発散してしまうからだ。そうなると運動方程式で力Fが有限値である限り、加速度aが→0に収束することになる。つまり速度が光速に近づけが近づくだけ、加速できなくなる。ついには加速度がほぼ0になる。つまりは光速を超えることはできない、ということになる。
 そしてこの相対性理論は、マクスウェルの4つの方程式に集約される電磁気学の本質を解明したものでもあり、その意味で「アインシュタインは電磁気学の完成者でもある」(砂川重信『相対性理論の考え方』)。


 ニュートリノにはまだ未解明な部分がある。もしもニュートリノに質量がなければ光速を超えたとしてもアインシュタインの理論を覆すことにはならないかもしれない。質量0なら光速になっても無限大に発散することはないだろう。わたしが学生の頃はニュートリノには質量はないという仮説のほうが有力だった。
 しかしニュートリノに質量はあった。その質量があると確認されてまだ10年ほどしかたっていないが、あった。ほんの微小な質量ではあっても、質量があるニュートリノが光速を越えるとなるとアインシュタインの特殊相対性理論がひっくり返ることになるかもしれない。20世紀の初頭に提唱され、現代物理の基本原理のような位置におかれてきた理論が、その原理において覆るかもしれない。相対論は、いろいろある中での一つの理論というものではない。力学や電磁気学を包摂し、量子論と結びつきながら、現代物理学にとっていわば原理的な位置をもっている。もしその相対論が根本的に覆るとなるとその影響は想像を絶するものがある。


 1965年のノーベル物理学賞受賞の前年、リチャード・ファインマンは講演で物理学の展望について次のようなことを述べていた。

 「次から次へと新しい法則が発見されて進歩が続くとは思えません。」
 「私たちが、まだ発見の続けられる時代に生まれ合わせたのは幸運です。アメリカ大陸発見のようなもので、発見は一回かぎり。私たちがうまれあわせたのは自然法則発見の時代です。こういう時は二度とこないのです。胸踊る興奮。この素晴らしさ。しかし興奮はやがて退いていくほかない。」(『物理法則はいかにして発見されたか』岩波現代文庫p266)

と、物理学という学問の行く末に悲観的な見解を述べていた。ファインマンはおそらく、戦後に活躍した物理学者の中で屈指の理論物理学者だったと思う。そのファインマンだからこそ、物理学での大きな根本的な法則の発見はもうないのではないか、という思いを抱いていたのかもしれない。実際にファインマンが同書で続けて述べているように、基礎科学のもっとも先端的で活発な分野は物理学から生物学に移ってきたようにも思えた。

 あたり前のことなのかもしれないが、アインシュタインにも、ファインマンにも、物理学者の誰にも予測もつかなかったような時代が、ひょっとするとやってくるのかもしれない。そうした「発見の続けられる時代に生まれ合わせたのは幸運」を感じることができるのかもしれない。もし本当にニュートリノが光速を超え、相対性原理が根本においてくつがえるのであれば、それはとてつもない「胸踊る興奮」の幕開けかもしれない。君たちはそれを目の当たりすることが出来る、あるいはひょっとしたら参加できるかもしれない世界に生きている。
(高木)

言葉を大切に

 言葉を大切に。学ぶことの過半は、言葉を学ぶこと、学び取ることのように思う。
受験勉強などという中途半端な幻想に囚われないでほしい。数学に受験用などない。物理に受験にだけ存在する法則などない。英語は、英語以外ではない。まっすぐにその内容を学び取って欲しいと思う。
 
 言葉は社会的に存在している。言葉の向こう側にはかならず人間がいる。人間が人間に何かを伝えようとしている。ときには自然を指し示しながら、ときには社会を、その歴史を指し示しながら、何かを伝えようとしている。それはどんな教科でも例外ではない。ことは現代文や古文・漢文だけのことではない。数学にも、物理にも、化学にも、生物にも、人間と自然の、あるいは人間と人間の格闘の歴史があった。ピタゴラスは自然数に宇宙をみた。ガリレオ・ガリレイは異端審問にかけられた。ケプラーの母親は魔女狩りにあい、火あぶりにされた。キュリー夫妻は放射能の被曝で死んだ。

 学校で学んでいることが、どれほど干からびて見えようと、どれほど実生活に役に立たないように思えようと、君たちが触れている言葉の、数式の、法則の向こう側には生きた人間がいた。そこにたどり着く糸の切れ端を手にしている。
 それをまっすぐにたぐり寄せつつ、見たことのない世界に分け入っていくこと。そうしたことを願う。

 

2011年 京都大学 国語第一問 1988年と同じ…

 全体にかかわることではないのだけれども、あまりにも驚いたので、書いてしまいます。

先ほど(昼休み)、今年、京大を受験している生徒から一報が入った。

驚いたことに、今年の京都大学の国語の第一問は林達夫の「文章について」が出題されたとのこと。この文章は1988年に一度出題されている。フランスのアランやポール・ヴァレリーなどのモラリストに通じる林達夫は扇動的で感情に訴えるようなある種の美文を忌避する。その立場から「散文」に求められるものを書き記した文章だ。渡辺一夫などとならんで、戦前の、戦争に向かってゆく「熱狂」の中に身をおき、多くの知識人たちの転身を横目で見ながら、決して戦争に翼賛する文章をかかず、覚めた理性を保ち続けようとした林達夫の文章への考えがストレートに現れていると思う。

その文章が、過去に出題されたときのまま、しかも設問も(1)と(2)も同じまま出題されたとのことだった。

京都大学の現代文はある種の匂いがある。京都大学らしい文章というのが確かにある。だから東京大学の現代文と過去25年の筆者を比較すると見事に一人も重なっていない。偶然なのか、意地の張り合いなのかわからないが、とにかくそうなっている。

個別指導の中でも、渡辺一夫、柳田國男、柳宗悦、森鴎外、寺田寅彦、下村寅太郎、西田幾多郎などの文章を扱ってきた。他の大学の現代文の出題ではめったにお目にかからないメンバーだと思う。明治期を含めて戦前の文章が多く、非常に濃密で入り組んでいる。社会科学的な、あるいは哲学的な、抽象的な概念を駆使して、言葉は難しいがすっきりと論理的に構築された文章というよりも、随筆風で、日常的に使う言葉に独特の奥行きを持たせるような筆者たちがそろっている。しかも、それがただその時の印象を述べたということではなく、日常的な言葉づかいの奥に極めて強靭な論理が貫かれている。そうした文章の書き手たちだ。一筋縄ではゆかない。
そんな筆者たちの文章を見ていると、京都大学は、「さぁ、かかっておいで。この言葉の奥に、君はどこまで入って行けますか? 筆者の見つめているものを君たちは見ることができますか?」と聞いているような気がする。

センター試験が終わってからも継続して、京都大学らしい文章をピックアップして演習していた。
林達夫は一回しか出ていないけれども、渡辺一夫とならんで京都大学らしい空気が漂っていたので、個別指導の演習でも扱った。
それがそのまま出た。

東工大の2007年の特別入試な数学で1993年の前期の問題がほぼそのまま(文章中の助詞がかわっただけ)出たことがある。数学では過去問とほぼそのままということは有り得ないではない気がする。けれども、現代文で自分の大学がだした問題文をそのまま使うことがあるのだろうか? しかも京都大学などで。
(東工大の特別入試は数学が2時間半でたった2問という強烈もの。それが2コマある。5時間で4問!)

理系の受験生としては現代文1題の出来で合否が決定的に左右されるということではないけれども、まぁ運がいいといえば、運がいい。京大の25年分の過去問をそれほどたくさん扱ったわけではなかったから。
しかし、と思う。
京都大学の問題ですよ。これでいいのですか? こんなことでいいのだろうか?
(高木)

センター試験2日目

 教室の外を見ると激しく雪が降っている。
昨夜からとか未明からとかでなくてよかった。センター試験の開始までに交通機関に影響が出たりはしていないだろうと思う。

いま12:40。ちょうど昼休みになっている。
とりあえずもう少しで第一関門が終わる。

毎年、今日の夜の教室はハードな状況になる。昨年もそうだった。泣くもの、みんなの姿を見て一緒に泣くもの… そんな生徒を全部集めて檄を飛ばした。毎年そうなる。

第一関門が終わっただけだ。何も最終的に終わったわけではない。センターの結果は、それを踏まえて次のことを考える材料であって、それ以外ではない。次の一歩を踏み出さないといけない。それしかできることはない。
ビハインドを背負ったところから次に進む生徒がいる。アドバンテージを獲得して次に進もうとする生徒がいる。けれども、ここからだよ。ビハインドは敗北ではないし、アドバンテージは勝利ではない。次の一歩の役割が少し変わるだけだ。

一喜一憂するのは、今日だけ。
けれども、毎年、その一歩を踏み出せなくなる受験生が出る。その重たい一歩を踏み出させるために激しく叱咤する。


いまは、祈るようなことしかできない。

今晩に向けて、私も心の準備をしておかなくては。
 
(高木)

春を迎えて

 こんなことを教室のブログに書いて良いものだろうか、とちょっと迷わないではなかった。けれども、書こうと思う。何も飾ろうと思わないし、何も隠そうと思わない。

***

この春で佐竹、宇田、竹内の3名の講師が辞めることになった。
苦労を分かち合った講師たちだ。旧教室の立ち上げ段階からの講師たちだ。

このブログだけでは分からないと思うけれども、わたしたちは3年前に親会社の倒産=教室閉鎖という事態に直面した。

2006年。私は名古屋で新規に高校生専門の予備校を立ち上げたいから教室の責任者としてきてくれないか、というオファーがあり着任した。5月だった。その1年後の4月には3人の卒業生を出した。一人は推薦で中京大学の心理学部に進み、あとの二人がいま講師をしてくれている石川君と教務の兼岩さんだった。彼ら、彼女らを送り出した4月から3ヶ月もたたない、6月25日、一枚のFAXが本社から流された。「荷物をまとめて教室を閉めるように。あとのことは弁護士に任せるように」とされていた。もう3年ほどになる。
このFAXの段階では本社に電話も通じなかった。弁護士事務所に何度も電話したが回線がいっぱいになっているようで、つながらなかった。名古屋校は収支で言えば非常に優良だったと思う。ほとんど退会のでない教室だった。けれどもどうしようもなかった。
その日、本当はもう閉めていなくてはいけない教室に、まだ残っているとき、生徒と保護者の方が数名こられた。営業内では居留守を使うべきだという意見もあった。けれども結局、現場の判断で対応し、分かる限りの状況を説明した。
大きな非難が私に突きつけられた。当然のことだった。

一方、その場で2名のお母様から「教室を存続して欲しい」という要望が出された。受験生のお母様方だった。生徒もいた。私は涙を抑えることができなかった。もうこんな教室は2度と作れないとも思った。その教室はただ勉強を、ただ受験の技術を教える場ではなく、人間と人間の魂のようなものがぶつかり合い高熱を発するような、そういう場所にしたかった。そうなりかかっていると思っていた。すべてを投入して作り上げつつある教室だった。

その会社の営業スタイルのため、授業料や教材費は前払いで払い込まれていた。その返還をめぐって、あるいは教室の今後をめぐって大きな問題が発生した。営業職員、マネージャーはすべていなくなった。
私ももうすべて終わりかと思った。
けれども大きな力が背中を押してくれた。生徒への責任もあった。ここで逃げたら一生、私は陽の光の下を歩けないと思った。それにふだんえらそうなことを行っている私がここで逃げたら、生徒たちは「しょせん、大人なんてそんなもの」と思う。それはどうしても耐えられなかった。


現状の生徒への連絡だけはつけないと、とパソコンにはり付き、ブログを立ち上げ、情報を配信し始めた。激しい非難も浴びた。ブログ上は激しい応酬にもなっていた。そして2週間後くらいに保護者の方々の50名か60名くらいの集まりをもつことができた。そこから保護者の方々の被害対策の具体的な行動がはじまっていった。

そうしているあいだ、受験生が放り出されていた。何とかしなくてはいけなかった。
生徒のご両親がやっているお店、公共の場所、講師の関係の囲碁教室。そうしたところを渡り歩きながら必死に指導を維持しようとした。「教室という箱がなくても、生徒と講師がいれば授業はできる」と信じた。佐竹はその時の私のことばを覚えてくれていたらしい。先日、最後に手紙をくれて、そのことが書いてあった。
佐竹、竹内、宇田の3人は、あの当時、どんな無理もおして教室存続に動いてくれていた。文字通りの意味で「献身的」だった。

そして生徒の保護者の方の一人が出資者になってくださり、いまの教室が立ち上がった。
不思議な気持ちだった。
保護者の方の支援、教室再開を待ってくれていた生徒立ち、その応援、献身的な講師陣…。何とも言えない見えない力に背中を押され、力を得て、この教室は立ち上がった。
ここは人間の力が集まり作り上げられた場所なのだと強く思う。私の力でもなく、誰かの力でもなく、様々な力が一つに集まりつくりあげた、小さな奇跡のような場所のように思う。彼らの力がなければ、この場所は存在していない。

先日、倒産に際して立ち上げたブログを読み通した。
胸が痛んだ。私は以前の教室の保護者の方に、生徒のみんなに対してもっと背負うべきものがあったと思う。「教室閉鎖のショックで子どもが下を向いてしまっている」というメールも読み直した。私は彼に何をしただろうか。新教室が立ち上がって、そのハードワークの中でやるべきことをやりきれていなかったと思う。胸の中に焦げ付くようなものが広がった。いまも広がったままになっている。
でも、だからこそ、この場所を守り、育て上げて行かなくてはいけないのだと改めて思う。


今年、浪人となってしまった生徒が4人いる。そのうちの3人が、元の教室からの生徒たちだ。ごめん。君たちにとって私はよい講師だったのだろうか? 胸の中に渦巻くものがある。もっとできることがあったような気がする。もっと何かあったような気がする。生徒の中に必ず可能性が宿っているのなら、私はそう信じているのだけれども、そうであるのなら、失敗に終わった結果にたいしてどうしても苦いものが残る。そしていつも「何かなかったのか?」と思い続けることになる。
この春の受験でほぼすべての旧教室の生徒が卒業した。
先日の筑波大学の医学群(医学類)に合格した生徒もその一人だった。少しは私も報いることができたのかな、償えることができたのかな?

春になると必ず成功・失敗の結果が出る。そして生徒たちが卒業していく。そのたびに様々な思いが胸の中を渦巻く。私で良かったのか?、ここで良かったのか?といつも思う。生徒と一緒に闘ってきたとは思う。死力を尽くしたとは思う。けれども、ただむやみに苦労させただけではなかったか、と思うこともある。もっと伝えるべきことがあったような気もする。
けれども前に向かって、解き放つようにして送り出さなくてはならない。未来ということばを希望ということばの同義語にするのは、これからの君たちの力だよ。がんばれよ。負けるなよ。

佐竹、竹内、宇田はそんなこの<場所>を、一番最初から、倒産という巨大な自体を越えて一緒に作り上げてきてくれた講師たちだ。
なのにいつも横柄で、文句ばかりつけていたような気がするな。申し訳ない。
でも、私は君たちに支えられてきたのだと本当に思うよ。君たちがいなかったら、きっと私はここにはいない。心から感謝します。ありがとう。
これから一人ひとり違う道を歩むけど、頑張れよ。私ももうちょっと頑張るよ。まだ負けないさ。

ほんとにいままで、ありがとう。

教室長 高木敏行

2月も下旬

 2月も下旬。
今年の受験生も、推薦入試を含めてもう終わった生徒もいるけれども、これから早稲田、慶応や国公立の入試がある。


けれども、あとほんの少しで終わる。
人によってもうちょっと長かったり、短かったりするだろうけれども、この1年が苦しいものであったのであればあるほど、この最後の数日を大切にしよう。ゴール前に失速したりするのではなく、本当に最後までやりきって、そして次のステップに進みたい。
この1年間、がんばってきた。だからこそ、あとちょっと。
やり抜いてほしい。しっかりした締めくくりを。
(高木)

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