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2012年合格実績

秋田大学・医学部医学科
京都大学・理学部 (滝)
名古屋大学・医学部医学科
名古屋工業大学都市工学科 (南山男子)
名古屋市立大学・経済学部 (愛知)
浜松医科大・医学科 (滝)
 
 
愛知学院大・歯学部 (海陽)
関西外語大学 (津島)
関西大学総合情報学部総合方法学科 (南山男子)
金城学院大・薬学部 (金城学院)
慶応大学・経済学部 (東海)
淑徳大学 (愛工大名電・普通科)
順天堂大学・医学部医学科 (愛知)
椙山大学女学園大学 看護科 (千種)
清泉女子大スペイン語スペイン語文学科 (聖霊)
南山大学法学部 (南山男子)
法政大学・文学部 (滝)
早稲田大学教育学部 (淑徳)

以上、各1名。
 
受験生は現浪あわせて23名。上記はその最終進学先です。
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合格体験記 長崎大学医学部・医学科 櫻井麻衣(金城学院高校卒)

合格体験記  桜井 麻衣

昨年の今頃私は浪人することが決まり,高木先生に「このまま勉強を続けても受からない。」と正直に言われました。高3のときVeritasで教えてもらって私は何を学んだのか,何ができるようになっているのか,いやまだ教わり足りないと感じてたのも事実でした。だから高木先生に言われたとき,私は変わろうと決心しました。


具体的にはまだ何をどう変えたらいいのかわからなかったときに受けた模試でついこの間やった問題とそっくりな問題が出たのに解けないという失敗をしました。できないってどういうこと?と自分を責めました。このことから復習の大切さを知り,次に必ずできるようにしました。勉強していて行き止まりになったり,何か進んでないと感じるとき私の場合は復習が足りませんでした。一つ一つ出来るようにならないと進めないのです。


高木先生にはたくさんお説教されたり指摘されました。
例えば,人の話をきけ,恥を捨てろ,もっと叱られろ,甘えるな,壁にぶつかることを恐れるなとかです。一番心に残っている言葉は,私が自分の殼に閉じこもっているというものです。始めは意味がよくわからなかったけどその後的を得た言葉だと気付きました。私が変なところで我慢してたり,頑固だったりして殻に閉じこもって相手に踏み入れさせなかったから,他人の文章が読めなかったり,参考書などの解答が入ってこなかったりしてたのです。一見私の性格上の問題に思えてその実,勉強にもつながってました。Veritasで私は勉強を教わるだけじゃなくてもっと生きる上で大切な(言いすぎかも……)ことを学べたと思います。だから生徒の皆さんが高木先生や講師の方に何か言われたとき,自分でもよく考えて素直に受け入れてみればいいと思います。きっと何かつかめると思います。ファイト!!

最後になりましたが高木先生,滝ノ瀬先生,講師の方々お世話になりました。 



さらっとした合格体験記になっているが、本当はこんな簡単なものではなかった。私も、数学、物理、現代文、小論文と4教科を直接見ていたからなかなか大変だった。かなり不器用だったし……
けれども、彼女の最大の課題は、学力ではなかったかもしれない。学力の底にある、彼女自身のあり方のようなもの、張り巡らされそのなかで窒息しそうになっている壁のようなもの、それを全力で覆さないといけないように思えて仕方なかった。

現役の時から強くそれを感じていたけれども、どうしても今ひとつ深く指導できなかった。指導が入っていなかない感触が強くあった。これには強く反省している。申し訳ない。
また、医学部と本人はいっていたけれども、本気でどうしても医学部、という執念のようなものも持っていないように思えた。

けれども現役の時、ひとつだけ確信を持てることがあった。櫻井さんは医者になるべきだ。どんなことがあってもなるべきだ。それは資質というようなものではなく、ここでは書くことが出来ないけれども、彼女自身のある壁の突破のためには、医者になるべきだと強く確信を持つことがあった。たぶん、この確信が次の一年の指導の原動力だったと思う。

実は、医学部受験も本人はけっこう揺れた。志望校もかなり暫定的に決まった。温かいところがいいなどという、それはそれで素敵な理由ではあるが、九大に決まった。九大に決めるために1日休んで大学をみに行かせたこともあった。まぁちょっと無理やり決めました。

そうしてやっと始まった。
本人も変わりたいといっていた。けれども変われるかどうかわからないと不安を漏らしていた。そのピークは9月だったか。多分、家族の人も知らないのではないかなと思うけれども、医学部受験どころか受験そのものを辞めるかどうかという危機に直面することがあった。必ず戻ってくる、とは言い切れない、そういう深刻な危機だった。

いろいろな意味で、いろいろなことをよく越えてきたと思う。よく走り通したと思う。
本当は九州大学を受けても勝負できたと思う。現役生だったら突っ込んでいたかもしれない。たぶん、五分五分くらいの力はあった。けれども浪人生は8割、9割、まず間違い無く大丈夫というラインまで持ち込まなければ勝負できない。そこで長崎に落とすことにした。
それでも国公立の医学は紙一重の争い。楽勝ムードはなかった。
けれどもひとつだけ確信を持っていたことがった。それは、櫻井さんは、この受験を通して大きく変わってきた。人間的に変わったと思う。けれども、その総仕上げとして、合格というひとつの関門をクリアすることで一挙に花が開く。そのことについてかなり強い確信があった。まぁだから「合格する」というわけではないけれども、「合格しなければいけない」と思わせるものがあった。

……ここまで書いてきて、ふと思ったけれども、これ、合格体験記の本文より長いですよね? なんだか「指導体験記」みたいになっている。いいのだろうか? まぁ仕方ないか。

本当に良く走りきった。
本人は、どう思っているのだろう? 長かっただろうか? そうでもなかっただろうか? 私も浪人の一年間は、いままで生きてきた中で結構、印象的だ。浪人して良かったし、悔いもない。それ以上に、何かの糧になっているように思う。

受験はたかだか受験です。
けれども、それはその人の本気のパワーを搾り出さないといけないようなものです。だからその人の在り様まで篩いにかけたり、大きく変えたりもすることがあります。
きっと苦労した分、何かいいことがあるに違いないと思うよ。

良い医者になることを確信しています。がんばれよ。

合格体験記 名古屋大学経済学部(A.Yくん 滝高校)

  私が、本格的に受験勉強を始めたのは、5月の河合塾の全統マーク・記述模試の後だった。それまでは、何となく大学生になれると思っていた。正直、どこの大学でもよかった。だが返却された残念な成績を見て反省した。

今までの自分の人生、一度も嫌なことに取り組もうとしなかった。嫌なものは避ける。本当にそうだった。私にとって受験とは、この性格との闘いだった。
とりあえず、8月のマーク模試まで本気でやろうと心に決めた。英単語を覚えようとした。数学は計算問題からはじめた。国語にいたっては日本語能力検定だった。毎日が嫌だった。英単語は次の日にはほとんど忘れた。数学は計算しかしない。国語は、あたりまえのことばかり書いてある。嫌で嫌で仕方がなかった。本当に嫌だった。でも、8月まではと自分で決めていたので、それまでは頑張ろうと思った。

8月のマーク模試は、私にとってはある意味で一次試験だった。目標の点数を1点だけ上回った。本当に嬉しかった。このとき、本気で名古屋大学へ行こうと思った。赤本を親に買ってもらい見てみると、到底解けそうに無い問題が並んでいた。正直、とても焦った。
だが、勉強が楽しく思えた。小学校の算数から嫌いだった数学は、どんな問題でもまったくわからないということはなくなった。英単語も、100個覚えて99個忘れてもいいと思った。一つ覚えていればそれでいいと思えた。心に余裕ができた。まだ時間はあると思えるようになれた。私の成績は、ひいき目に見ても五分五分。普通に見ればおそらく無理だった。私は、五分五分なら合格できると思うようにした。

そんな気持ちでセンター試験を受けた。結果は自己ベストだった。目標点を大きく越えていた。だが高木先生は、「そうか。」としか言わなかった。このとき私は、センターは通過点だ、と教えられた気がした。何度もやめようと思った塾だったが、このとき本当にいい塾だと思った。おかげで、すぐに前期の勉強に入ることができた。

9月からは、ポジティブな考え方をしてきた。試験中でも同じだった。楽観的な考えは必ずしもよいとは言えないが、受験では非常によかった。
受験は自分の努力も大切だが、必ずどのような形でも支えてくれる人がいます。だから私は受験を支えてくれた親や塾、学校の先生方に「ありがとう。」と言いたいです。

長々と1年間を書かせてもらいました。嫌なこととはじめて向き合った1年でした。少しは性格が変わっていてくれるとうれしいです。これからの人生でも嫌なことと向きあうことができるといいなぁと思っています。偉そうに合格体験記を書いていますが、いたって普通の人間です。塾では、人と話すことがなかったので、私のことを正直知らない人のほうが多いと思います。
最後になりますが、3浪しても無理と言われた大学に現役で合格させて下さった高木先生、滝野瀬先生、意味のわからない言葉の羅列だった答案を添削し、合格できる答案にして下さった中根先生、嫌いだった数学を得意科目にして下さった小林先生、理解するとはどういうことかを教えて下さった石川先生、正直さっぱりだった古典を教えて下さった早津先生。本当にありがとうございました。いい先生方に巡り合えた私の受験でした。今まで、ありがとうございました。



そうか、なんどもやめようと思ったか。確かに一度、講師と激突して、途中で帰ってしまったことがあった。水面下でいろいろな動きがあった。

 …もう時効か? あの時、実は、君の知らないところでいろいろあったのだよ、A.K君! いいかな、生徒が苦しんでいるときは、ちょっと立場や位相は違うけれども、その生徒が思ってもいないような人が、別の角度で、別の立場で必死に何かを考え、何かを模索していたりするものなんだ。そういうことは、多分、信じていいことなのだと思う。


 そして翌日、彼としばらく話し込んだ。厳しく辛い指導だったのだと思う。このとき、二つの選択肢があった。もう辞めようと半ば思っている彼をなだめ、落ち着かせるために全力を上げるか、あるいは、私が正しいと思うことについては一線を引き、譲歩しないで対するのか。後者は大きなリスクがあった。けれども私は後者を選択した。

生徒が泣こうが喚こうが、絶対に引き下がってはいけない一線があると感じることがある。教室の民間の経営体だからリスクは好ましいことではないけれども、でも、ある一線を譲歩すると、指導ということの根っこが崩れるように思う。名大の合格に絶対に避けては通ることができない内容を打ち出していると判断するならば、そこは下がってはいけなかった。そこで一歩引くことは、いかにも優しげなふりをして、その実、合格のために必要な指導を放棄することを意味すると思えた。

きっとあの時、彼は本当には納得しなかっただろうなぁ、と思う。そうでもないのかな?覚えいているかな?

そして名古屋大学の経済学に合格した。
あらかじめ約束されていたような合格ではなかった。よく頑張ったと思う。
不思議なもので、力があるから合格する、足りないから合格しない、まぁ原則的には確かにそうなのだろうが、現実の合否は必ずしもそうならないことがある。先のSK君もそうだったけれど、AY君も、妙に志望校については腹が座っているところがあった。志望校どうする?と聞くと、やけに迷うことなく名大と答えていた。確かにはじめは勉強、ほんとうにイヤイヤやっていたのだろうけれど、でも、どこかで自分についてのケジメのつけ方を知っているようなところがあった。あるいはそうしたことをこの受験を通して身につけていったのかもしれない。
きっとこれが合格をもぎとった、最深の力だったのだと思う。

合格の力は、君の内部からの力だと思う。もしこの受験で少し変わったのなら、これからもっともっと変わっていくかもしれない。そうやって未来を創り上げていくのだろうと思う。これからも頑張って。

合格体験記 名城大学・薬学部(K.Mさん 金城学院高校)

 奇跡的に名城大学薬学部に合格することができました。ではこれから、受験生活で感じたことなどを色々と記していきたいと思います。
役に立つか分かりませんが、勉強に疲れたときにでも気楽に読んでみてください^0^/



まず、私は始めから第一志望が名城大学というわけではなく、岐阜薬科大学という公立大学を目指していました。高3の11月ぐらいまではその大学に向けての勉強をしていました。高1のころから岐阜薬科大学にあこがれ、高2まで(実際高3の夏ぐらいまでかもしれません><)は自分のレベルも知らずにただその夢を追い続けていました。。。
夏休みの終わりの模試(大抵の人が伸びているはずらしい)では、岐阜薬科の光など全く見えず今まで滑り止めだと思っていた名城大学でさえ判定はDでした。夏休みも毎日朝から夜まで勉強したつもりなのになんで結果がこうなんだ。。と努力と結果のつり合いのなさに、悔しさ、悲しさ、不安、焦燥感を一気に感じたのを覚えています。

特に数学は大の苦手で、夏休みの勉強のほとんどは数学をやっていた記憶があります(もっとバランスよく勉強しろ!と言われていました。。)が、なんと夏休み後の模試の結果は至上最低点の30点台でした。。高木先生には、『量をやったから伸びるわけじゃない、その1問1問を掘り下げて深く理解することで力がつくんや!』とかなり頻繁に言われていましたけど、やっとその意味が分かった瞬間だったと思います。結局、そのことを直さなくてはと思いつつも受験が終わるまで言われ続け、直すことはできなかったですが。。。(いけませんね。。)

講師の方々と個別をやっていく中でも本当にそのようなことを感じることができました。
ベリタスの講師の方々は優秀な方ばかりですから、一緒に問題を解いている時など、その問題に対する粘り強さや取り組みかたなど、問題の解き方はもちろん、なんというか勉強に対する姿勢みたいなものを身近に感じ、そうか~。と毎回の個別で色々な刺激をうけていました。ある講師の先生は夜の11時ぐらいまで、私と一緒に1つの問題に取り組んでくれました。その時、このたった1問に本当にこんなに時間をかけてとくんだ!ということを身を持って知りました。これこそがまさに1問を掘り下げて学ぶということだったんだなと思います。私は分からない問題があると、すぐに解答を見てしまうとっっても悪い癖がありましたから、その事は私にとってかなり衝撃的だったのです。

結局3年の11月あたりになっても、名城大学も危ないという危機にまだ立たされており、私の家は浪人が許されていなかったので(逃げもあったと思います。)岐阜薬科をあきらめ、名城大学一本にしぼった勉強方針に切り替えることにしました。

その選択をくだすことは私にとっては本当に大きな壁でした。”今まで国公立のために名城大学には必要のない勉強もしてきたのに、今あきらめたら今までそれに費やした勉強やかなりの時間は無駄になっちゃうし。。。こんなに憧れてきたのに自分から諦めていいかな。。何が一番自分にとって良い選択なのか?と自分の意思もだんだんワケが分からなくなりながら、最終的にそのような決断をしました。(今までで一番大きな悩みだったと思います。)また、金城大学の推薦がその時点であり、もうわたし推薦でいいや。。と、かなり弱気でその大きな不安の圧力に負けそうな時もありました(先生には言えませんでしたが、先生はそのことを私の雰囲気から気づいていたことが後に分かりました)でも、それは受験生の誰もが経験する圧力であり、みんなが乗り越えている圧力なんだろうなと思います。

そこから、私の名城大学へ向けての勉強がはじまりました。初めて赤本を解いたとき、数学と化学は3割ぐらいしかとれませんでした。あ~(T.T)これはピンチ。。とかなり危機を感じていました。なんといっても試験まで残り3ヶ月ほどしかありませんでしたから!!私立大の赤本は1冊に2年分しかのっていませんから、オークションで5冊ほど買いました。問題を何年も解いていくうちに数学はこの分野が頻出か~。とか、化学なんて何年も前に出ているところがちょっと変えて出題されたりしていました。そういう点で赤本をたくさん解いておいて良かったなと思います。また、普段の勉強には、何冊も解くより一冊を完璧にした方がいいというアドバイスを受け、化学のセミナーを6周ほど解きました。(私の場合、それぐらいでやっと人並みだったと思います。T_T涙)

やがてセンター試験となり、大きな屈辱が再びやってきました。なんと、これまた史上最悪の点数を、本番でしかも化学でとってしまったのです。このショックさは言い表せません。。これには、高木先生からも名城大の薬学部は現状では絶対無理だ。これまでのあり方を根本的に変えないといけないんだ、と辛いけれど本当のことを告げられ、”もう私ほんとうにどうしよう~~~”と、めずらしく本気で落ち込みました。講師の先生にも、もう開き直ってやるしかないんだよ!と励まされ、それからは急速に知識の穴を埋めていきました。

また、本当にいけないことだったと思いますが、試験直前の2、3週間前まで全く化学ⅱの有機の範囲の知識がついておらず、先生にも相当しかられながら、1週間で全て覚えました。
最後まで嫌なことを放っておく私の悪い癖への見返りですね。。結局、試験までには全て覚えることができたので良いといえば良いですが、絶対に早くやっておくべきだったと思います。

しかしこの時私が感じ、伝えたいことは、「何をやるにも遅すぎることはない。」ということです。例えあと1週間しかなくても、諦めなければどんな人でもできるんだ!と思いました。受験勉強中は「もう時間がないし、やり始めるのが遅すぎた。」とよく思っていましたが今考えると全然そんなことはないと思います。

最後に、こんなに出来の悪い私の面倒を最後まで見捨てる事なくみてくださった高木先生、滝ノ瀬先生、大塚先生、杉村先生、小澤先生、佐伯先生、その他の講師の方々には本当に感謝しています。怒られてばかりでしたけど今思えばいい思い出です。ほんとうにありがとうございました。まだまだ多くの課題を背負っているので、大学で1つずつ克服していきたいと思います。ベリタスで学んだことをこれからも生かして頑張っていこうと思います。



おめでとう、というべきか。本当は岐阜薬科大学の志望だったんだよね。でも、やっぱりおめでとう。

こんなことを書いていいのかどうか分からないけれども、まぁ、本当に声を枯らして怒鳴り続けた気がする。それによく耐えたなぁ、と率直に思う。いろいろ、いろいろ、本当にいろいろ課題があった。ひとつ修正すると次の課題が出てきて、その課題を修正していると前の課題がもとに戻っていたりした。本気で岐薬を、と思っていたから激しく叱り飛ばした。

でも、合格体験記読んでよくわかったけれども、やっぱり、本当に勉強が噛み合い始めたのはセンターが終わってからだったんだね。全力で名城の合格を取りに行くために全力で舵を切ろうと叱り飛ばした。センターの結果は峻厳だった。その峻厳な結果をまともに受けとめようと思うならば、「いままでの勉強方法はダメなんだ、根本的に転換せよと結果が告げているんだ。それができるか?」と詰め寄ったと思う。

それからものの半月。ここは本当によく頑張ったと思う。なせばなるんだね。

薬学部は、これから国家試験が控えている。まだまだ勉強は続く。
頑張って。あの時の調子でやれば、大丈夫。

2011 合格実績


<国公立大>

長崎大(医) … 1名

名古屋大(経済) … 1名

神戸大(海事科) … 1名

京都府立大(生命環境) … 1名


<私立大>

早稲田大(商) … 1名

愛知医科大(医) … 1名 ★ 特待合格

東京理科大(薬) … 1名

明治大(法) … 2名

明治大(経営) … 1名

明治大(政経) … 1名

明治大(商) … 1名 ★ 特待合格

青山学院大(法) … 1名

同志社大(スポーツ健康科) … 1名

同志社大(文化情報) … 1名

立命館大(薬) … 1名

立命館大(工) … 1名

南山大(法) … 1名

南山大(総合政策) … 1名

東京薬科大(薬) … 1名

名城大(薬) … 2名

名城大(理工) … 1名

摂南大(薬) … 1名

金城学院大(薬) … 1名

金城学院大(人間科学) … 1名

合格体験記 早稲田大学・商学部(東海高校・SK君)

 僕がVeritasに入るきっかけとなったのは、母の「高校に入ったら単位がとれなくなって留年するよ」という強い脅し文句からでした。

このころの僕は特に勉強に対して不真面目でどうやって勉強から逃げようかについてばかり考えていました。英語と数学は手がつけられないくらいひどく、<分からないところが分からない>状態でした。数学は受験では使わなかったのですが、多分、二次関数で止まっていて、英語は1月2月などの単語も書けなかったと思います。

この状態から抜けだすために中学英語を徹底的に総復習、と言うよりも知らないこと(やったはずなのに記憶がないだけだけど…)がほとんどで辛かったです。アメリカン・フットボール部で3年の春まで部活をやっていたので休みの日の火曜日・木曜日を塾にあてましたが、正直ハードな部活だったので塾で出された宿題以外のことは何一つ出来なかったです。

でもこのコツコツと基本的なことを反復していくという勉強のおかげで部活を引退した6月からの勉強の土台が作れました。7月には今までやってきた数学を捨てて日本史に切り替えました。塾の方針とは違う選択をしましたが、嫌いな数学というイメージがまだ強かったのでそれならまだ日本史という考えがあったのかもしれませんね。
夏休みを越えたあたりで英語の長文を読むのに2倍くらいの時間をかけてたので、どうにかしないと受験で話にならないとなり英語に一日の半分の時間を費やしました。そのおかげで英語の苦手イメージはほとんど無くなり「読める英文なら好き」の状態にまでなれました。受験直前には国語がスランプになって6割のあたりをさまよいましたが、本番ではベストを尽くせたので良かったです。

Veritasは、定期テストでは350人中300位以上をとったことが一度もなかった僕を、受験で勝負の土俵に上がれるほどにしてくれました。この塾に入らなかったら今頃全部落ちて浪人して惨めな思いをしていたと思います。
最後にはなりましたが、高木先生、滝野瀬先生、中根先生、石川哲先生、その他の講師の皆さん、ご指導本当にありがとうございました。

(東海高校 S.K)



蛇足になってしまうけれども、若干…

最初は本当に、本当に大変な状態だった。彼も書いているけれども、曜日や月の英単語がかけず、不規則変化する動詞も覚えていない。そういう状態で、中学英語の最初からやり直していたのは高校2年生になってからだった。しかも、そのころはまだイヤイヤやっているような気配があった。どこか諦めているような気配もあった。どうせ浪人かな、というような空気も感じないではなかった。課題をナントカカントカこなしている、という状態だったように思う。何がなんでも2年で間に合わせる、ということで、担当講師にはかなりプレッシャーをかけた。かなり激しい檄を講師にとばしたこともあった。それは彼の指導のファイルに記録されている。

転換を感じたのは3年生の4月くらいだっただろうか。

単語テストが始まった。英語の総合力はまだまだ足りなかったけれども、単語を覚えることなら出来る、そう思っていたのかもしれない。単語テストが始まって、点数が低いことをかなり悔しがっていた。それまでみたことがない姿だった。本人はあまり覚えていないみたいだけれども、一つの手応えを感じる出来事だった。
しかし、まだ早稲田に届く道が見えたわけではなかった。数学を捨てて日本史に絞り、その後、一点、早稲田を見据えた学習にシフトしていった。早稲田以外には目もくれない、それ以外のものはすべてそぎ落とすんだ、という議論を本人、講師を交えて行なった。
本当にぎりぎりの勝負だったと思う。あまりやりたくない「ギリギリの勝負」だった。

勝因は、たぶん、彼自身の「早稲田に行きたい」という気持ちが最後までブレることがなかったことだろう。どれだけ遠くにみえようと、早稲田に行きたい、という一点が崩れることはなかった。それがすべてを支えたと思う。
学力が合格を作る。確かにそうだけれども、その学力をつくりだす原動力は、きっとこうした<意思>、揺らぐことのない意志なのだろうと思う。と、こうきっぱり書くと、本人はきっと照れると思うけれども、でも、そうした意志が早稲田に挑戦する力を生み出したのだと思う。

おめでとう。

大学に入ったら、もっともっと勉強するように!!!!
(高木) 

合格実績・合格者の声(まとめのページ)

 ■2007年度 合格者
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/50/
 
■2008年度 合格者(国公立編)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/57/
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/58/
 
■2008年度 合格者(私大編)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/46/
■2008年度 合格者(速報)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/35/
 
■2009年度 合格者(合格体験記 京都大学法学部)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/111/
 
■2010年度 合格者(合格体験記 京都大学工学部)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/172/
■2010年度 合格者(合格体験記 愛知医科大)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/171/
■2010年度 合格実績(結果)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/171/


■2011年度 合格者(合格体験記 早稲田大学商学部)
http://veritasnagoya.blog.shinobi.jp/Entry/211/




 

京都大学工学部 合格体験記~平野雄一くん~


このたび、ようやく京都大学工学部に合格することができました。私の京大への道のりは長く、また時につらいものした。しかし、今となっては、それはつらいものではなく、決して良いこととは言えませんが、それなりの経験ができたと思えるのでそのことを記していこうと思います。

まず、簡単に述べると、私は、2浪して京都大学に合格することができました。それでは少し詳しく合格までの道のりを書いていきます。

私は、現役生の時も明らかに実力不足とわかっていながらも、京大を受験しました。結果は、当然不合格でしたが、その時は、あまり悔しい思いなどせず(多少は悔しかった)、浪人をすることにしました。あとあと考えてみると、このとき浪人をするという気持は、自分で言うのも何ですが、かなり強かったのですが、悔しい思いをそれほどしなかった(受験に本当に命をかけるくらいの気持ちでいれば、当然悔しい思いはするのですが・・・)ことが良くなかったと思います。
1浪のとき、自分なりに精一杯、勉強に臨み、模試でも一応B判定が出るくらいまで実力がつきました。そして、そこで油断することもなく、センター試験も今までで一番良い点数を出せ、あとは二次試験でいつも通り実力を出せば、合格できるという状態になりました。しかし、二次試験が始まり、1日目の1科目の今まであまり点数のとれなかった、国語は自分としてはでき、安心したのも束の間、2科目目の数学で問題が発生しました。確かに、数学はそれほど得意ではなかったのですが、試験本番ということもあってか、どの問題も難しく見えてしまい(実際、難化したとはいえ、6問中2問は確実に完答できるような問題であった)、パニックになり、全然手がつきませんでした。そして、2日目、数学の不出来を何とか挽回しようと臨みました。そして、英語は自分としてはとてもできたという感覚があったので、最後の科目の理科に望みをつなげました。理科の試験が始まり、いつも通りの順番で問題を解いていくと、なぜか普段ならば、すぐに答えられるような問題でつまづき、時間は十分あるにもかかわらず、またパニックになり全然実力を出し切れませんでした。そして帰り道、現役生の時とは比べものにならないくらい悔しくて(なぜなら、1年間友達に会うこともなく、ほとんど人とも話さずに、受験勉強にのみ打ち込んでいたにもかかわらず、全然実力を出せなかったから)泣きながら(笑)歩いて帰りました。このとき、何事にも動じない確固とした精神力の大切さをとても感じました。そして、非常にありがたいことに、両親が後期試験で合格した某N大学に通いながらなら、もう一度だけ挑戦することを許してくれました。

そして、大学に通いながらの2浪(仮面浪人)のとき、もう合格するだけの実力は十分あるとわかっていたので、その力が落ちないようにしていくことになりました。大学に通いながらと言っても、めんどくさいので、最低限の出席と単位だけとれるくらいしか手をかけず、情が移るといけないので、友達など作らず、誰かに話しかけることすらしないで、あとは大学の図書館で勉強という、本当にに大学など相手にしていない生活を送っていました。受験勉強も長くなり、自分でも良くないとわかっていながらも、だんだんこなすだけの勉強になっていきました。センター試験が、近付いてくると、さすがにこれではまずいと思い、気持ちを切り替えました。しかし、あまり良くないことなのですが、センター試の点数配分的にセンター試験は全く気にしていなかったので、社会の勉強しかしませんでした。その代わり、二次試験の勉強に力を入れました。その結果、センター試験は今までで一番悪い結果になりました(センターリサーチでも一番悪い判定)(笑)。それで、両親にはもう無理なのではないかと言われたりすることもありましたが、1浪時に学んだ動じない気持ちがあったので本当に全く気にしませんでした。センター試験が終わってから少ししたころ、高木先生からこなす勉強になってないかとすこし強く言われ、さらに気持ちが固まり、残りの期間今まで以上に集中して臨みました。ついに、二次試験の日になり、去年のようにどんな問題がきてもパニックなどならないよう自分に言い聞かせました。1日目、またも国語はできたつもりになりました。そして数学、去年と比べると非常にやさしい典型問題ばかりだなあと感じながら、あまりパニックになることもなく終えました。しかし、試験終了直後、どの問題も少しずつミスしていることに気づき、少し焦りました。けれども、去年の経験と今までやってきたことを考えると、絶対挽回できると確信していました。
そして、2日目、英語の出来もよく、残すは理科となりました。試験開始少し前に気持ちを固め、試験が始まると、化学に難しい問題があることがわかりましたが、それは今まで見た問題の中で非常に難しい問題の類であったので、周りもできないだろうときっぱり解かないと決め、他でとると決め、見事それがうまくいきました。帰り道、ところどころミスしてしまったけれども、できることはやったという気持ちであったので、去年のように泣くこともなく、おそらく受かったであろうと良い気分で帰りました。結果はもちろん合格。

以上が私の京大合格までの道のりです。まわりからは、「よく大学行きながらやったなあ」とか言われたりしますが、自分としては、どうしても京大にいきたいという思いがあったので、確かにつらい時もありましたが、全然すごいことでもないような気がします。私の経験から言えば確かに学力も必要ですが、自分が受験勉強に対して、「どうしてもどこそこの大学に行きたい」とかいうような真剣な気持ちを持って臨むことが、それ以上に受験をする上で根底になければならないと思います。

最後に、浪人でありながらも受け入れてくれた、高木先生、滝野瀬先生、そして登先生、またその他の講師の皆さんに深く感謝しています。
本当にありがとうございました。長文、長々と失礼しました。

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