今日、ある生徒をしかりました。これはみんなに共通することだと思うのでここに書き残すことにしました。
テキストに添付されている図やグラフに頼らないこと。自分で描くこと。自分の図やグラフを描くこと。自分で式を変形し、展開すること。ここの手を抜いてはいけない。
問題集やテキストをしっかり跡づけながら追体験してほしい。
テキストに書かれていることは他人の経験に過ぎません。それを自分のものにすることです。そのためには自分がやってみることです。自分でやってみることです。自分でやってみて、それを確認するとき、数学の内側に入り込むとき、はじめてそのもっている意味の全貌が見えるのです。
眺めているだけでは、読んでいるだけでは見えないものです。外側からみているだけでは、いくらキチンと追いかけているようでも内部を貫いてはたらいている論理は掴めません。
君たちが掴むべきものは表面の流れ、手筋だけではありません。その中を貫いている論理であり、イメージの連鎖です。それを感じとるところまで追いかけてみてください。その時、いままで見えていなかった視界が開けうるのです。
そうした一問、一問への対し方をしてください。今の学力が問題になるのではありません。いまの学習の緊張感、集中力、自分に対するシビアさ、適当に曖昧に理解したかのような状態を認めてしまう自分との格闘。そのレベルが志望校に届いていなければ、どれほど量をこなしても必要なレベルには到達しません。
もっと大切に。その一問を通して何を掴むべきなのか、自問自答しながら、問題と会話しながら、勉強を、問題演習をやっていってください。
前回、山鳥重氏の本からの引用文を掲載しました。
学習方法を考えていく上で大切なヒントがあります。
自分から自発的にわからないことをはっきりさせ、それを自分で解決してゆかないかぎり、自分の能力にはならないのです。(194~195)
知識も同じで、よくわかるためには自分でわかる必要があります。自分でわからないところを見つけ、自分でわかるようにならなければなりません。自発性という色がつかないと、わかっているように見えても、借り物にすぎません。実地の役には立たないことが多いのです。(195)
結局、教えてもらっても、問題集や参考書を読んでも、自分ができるようにならない限り、それは意味がありません。教えてもらって「へー、そうかぁ」で終わってはいけないわけです。当たり前のことです。けれどもその当たり前のことがなかなか解決していません。イチローのバッティングをずっとみていたらいきなり自分が打てるようになるか。ならない。けれども勉強になると突然、そう思っているとしか思えないようなやり方になる生徒がいます。それは絶対に身につきません。
教えられたこと、学んだことはできるだけすぐにやってみる。できればそれが使えそうな問題を探し出してでも使ってみる。そうやって初めて自分のものになります。勉強することは、そうやって知らなかったこと、できなかったことが身につき、使えるようになることです。
学習方法の検討・再検討のために(1)
今年の受験ももう最終局面です。同時に2年生が受験を本格的に意識し、そこにむけてスタートを切るべき時期です。
やるべきことはたくさんあります。当然、学習時間の確保、そのための生活のリズムやあり方の変更も必要です。自分でやらない限り、どんな受業を受けようと、どんなテキストを読もうと、自分の力にはなりません。
けれども方法が適当なままで学習を積み重ねても力にはなりません。
いまこの時点で自分の学習方法を見つめ直してください。本当にこれでいいのか、本当にこういう勉強のやり方(量は別にして)で志望校に届くのか、真剣に考えるべきことです。いま、真剣に考えるべきことです。センター試験直前などにはもうそんなことをじっくり考えている時間がありません。また本当に有効な学習方法を検討し、自分のスタイルを作り上げていくことはとても大切だし、それがこれからの学習の効率・深度・到達度などを決めることを考えるとその影響はかなり大きなものがあります。
そこでいまの自分の学習のあり方を検討するための素材として、『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』(山鳥重著 ちくま新書)からの抜粋を作りました。前半後半に分かれます。(できれば買って読んでみたらいいと思います。筆者は医学部で脳関係を専門にしており、そこから<分かる>ということを臨床を含めて考えてきた人です。参考になることが多々あると思います)
まずは<分かる>とはどういうことなのか、ということについて。( )内はページ数です。
意味がわからないと、わかりたいと思うのは心の根本的な傾向です。生きるということ自体が情報収集なのです。それが意識化された水準にまで高められたのが心理現象です。意識は情報収集のための装置です。情報収集とは、結局のところ秩序を生み出すための働きです。
情報識別という根本的仕組みによって生命というひとつの秩序が誕生したのと同じように、その生命体が人間に至って心という新しい秩序を生み出したのです。この秩序は身体性を持つ身体のように手に取ることも、見ることも出来ませんが、行動という形式で外形化させることが出来、心という形式で経験することが出来きます。
わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます。(181)
犬、猫、牛、馬、烏、鳩だけしか動物を知らない、と考えてみてください。その場合はこの六種の動物がその人の知識の網の目になります。この人がもしキツネを見かけたとしたら、犬みたいな動物と判断するでしょう。あるいは犬そのものと判断するでしょう。イタチを見かけたら猫みたいな動物と考えるでしょう。ラクダを見たら変わったタイプの馬と考えるでしょう。鷲を見ても烏と思うでしょう。とりあえずは自分の頭の中にある辞書を使って判断するしかないのです。そのうち、キツネ、イタチ、ラクダ、ワシと、知識の網の目が細かくなります。網の目が細かくなると判断も細かくなります。すべて「犬」では満足出来ず、犬は犬でもスピッツか、チンか、コッカースパニエルか、ということになるでしょう。烏もハシブトかハシボソか、が気になるようになります。
知識は意味の網の目を作ります。網の目は逆に知識を支えます。ひとつひとつだと不安定ですが、網の目になると安定感を増します。
網の目を作るにはまず記憶が重要です。しっかりした記憶を作らないと、しっかりした網の目は出来ません。言葉の記憶の網の目がしっかりしているから言葉がわかるのです。(184)
心理過程はすべて記憶の重なりです。知らず知らずに覚え込んだか、意識して覚え込んだかの違いはあっても、覚え込んだものが積みあがった結果が現在の心です。覚えることに嫌悪感を持たないようにしてください。記憶を嫌がっている自分自身が記憶の上に成り立っているのです。
知識の網の目が出来ると、何がわかっていて、何がわかっていないのかがはっきりするようになります。網の目が変なものをひっかけてくれるのです。(186)
誰も初めから知っているわけではありません。誰もが長い時間をかけて知識の網の目を作り上げているのです。あいつはE=mc²がわかっているみたいだが、俺はわからない、ということもあるでしょう。だからといって、悲観することはまったくありません。その人の頭にはわかるための素材が溜めこまれているのです。その気になれば誰にでも溜められます。日本人なら誰でも日本語が理解出来、日本語が話せます。これが理解の原点です。科学の場合は、科学に必要な言葉を覚えればよいのです。ただし、近道はありません。言葉だって10年以上かかります。知識の網の目を作るにはそれだけの勉強が必要です。無から有は生じません。生命は自然に発生しません。パスツールが証明した通りです。知識だって同じです。自然には生じません。網の目を作り上げる人と、作り上げない人がいる、というだけの差です。ただそれだけのことです。(188~189)
学校ではわからないことは試験問題とか、先生からの質問という形で与えられます。ですが、このように受け身の形で人から与えられた問題(わからないこと)が解けたからといって、知識が自分のものになるわけではありません。本当の意味でのわかる・わからないの区別の能力は人から与えられるものではありません。自分から自発的にわからないことをはっきりさせ、それを自分で解決してゆかないかぎり、自分の能力にはならないのです。(194~195)
筆者の引用はいつも古すぎて申し訳ありませんが、「十で神童、十五で秀才、二十過ぎればただの人」という言葉があります(間違っていたらごめんなさい)。学校で試験が出来たからといっても、それは与えられたことをこなしているだけで、その人の能力の尺度にはなりません。社会に出た時、なんやあいつ、と無能をさらすことになります。社会で生きてゆくには自分で自分のわからないところをはっきりさせ、自分でそれを解決してゆく力が必要です。
人間は生物です。生物の特徴は生きることです。それも自分で生き抜くことです。知識も同じで、よくわかるためには自分でわかる必要があります。自分でわからないところを見つけ、自分でわかるようにならなければなりません。自発性という色がつかないと、わかっているように見えても、借り物にすぎません。実地の役には立たないことが多いのです。(195)
この能力は作業記憶という言葉が示唆するように、何かを考えるためにはどうしても必要な記憶です。
いま例に上げたくらいのことならごく簡単ですが、込み入った関係の理解ではもっと複雑な心像を操作しなければなりません。(198)
筆者が強調したいのは比較(円とドル)にしても、つながり(コインでジュース)にしても、比較すべき対象、あるいは遂行すべき過程を全部同時に意識に浮かべることが出来ないと、その課題を実行出来ないということです。意識にあるものがひとつだけでは比較のしようがなく、つながりのある行動の一部分だけでは実行のしようがないのです。
もちろん、どんなことでも同時に意識化出来るかというと、そうはゆきません。そんな場合、われわれはメモをとります。文や図などのメモを使って作業記憶を強化したり、代用したりするのです。図も文字もそういう意味で人間だけがなし得た大発明です。積極的に活用しない法はありません。(200)
経験的なことですが、わかったことは図に出来ます。中途半端にしかわかっていないことはなかなか図になりません。まるでわかっていないことはとうてい形になりません。わからない場合はまず図を作ってみることです。図というのは頭で同時に浮かべきれないことの手助けをしてくれます。同時に把持出来ないことを紙が代わりに把持してくれます。図をためつすがめつ見ていると、あ、わかった、やっぱりわからない、という点がはっきりしてきます。(200~201)
ちゃんとわかったかどうかは、一度実際に自分で行為に移してみないとなかなかわからないものなのです。
筆者の考えでは、わかるとは運動化出来ることです。
わかっていることは運動に変換出来ますが、わかっていないことは変換出来ません。
運動といわれるとピンと来ないかも知れませんが、話すのも、文を書くのも、絵を描くのも表現活動はすべて運動です。行為(発話行為、書字行為、構成行為など)という別の言葉を使いますが、要するに運動です。(203)
しっかりした心像が形成出来れば(表象出来れば)、それはそのまま運動に変換出来るということです。人間の心はそういう仕掛けになっているのです。
絵に限りません。すべての心理活動は同じ原理で動いています。
きちんとわかったのか、わかったと思っただけなのかは、一度その内容を自分の言葉で説明(表現)してみると、たちまちはっきりします。表現するためには正確にわかっている必要があるのです。ぼんやりとしかわかっていないことは、自分の言葉には出来ません。説明しているうちになんだかあやふやになってしまいます。あるいはごまかしてしまいます。わかったように思っただけで、実はたいしてわかっていなかったことがわかります。それに対して、ちゃんとわかっていることがらは自分の言葉で説明することが出来ます。自分の言葉で説明出来るのと、自分で箱の絵が描けるのとは、同じことです。話す、というのは行為であって、ちゃんと話すには内容の正確な把握が必要なのです。(204~205)
自分でわかっているのかわかっていないのかがわからない時には、言葉にしてみたり、図にしてみたりすればよいのです。そうすれば、わかったつもりでいたことが、実は何もわかっていなかったことがよくわかります。わかっていないところがはっきりすれば、それはとりもなおさず、わかるための第一歩となります。(206)
別の言い方も出来ます。すなわち、運動化するということは、形をはっきりさせるということです。はっきりさせないと運動になりません。あやふやがあやふやでなくなる、ということです。その分、理解も深まります。自分がわからないことは人にもうまく説明出来ませんが、うまく説明出来れば誰よりも自分が「よくわかる」ようになります。(207)
学習することとはどういうことか考えてみよう。
例えば数学の問題を解く。解けることもあるし、解けないこともある。
さて、質問。勉強は問題が解けるようになるためにするのだろうか? どう思いますか?
そうだという人もいるし、違うという人もいる。実はここには<学習することってどういうことなのだろう?>という「学習観」についての大きな違いが孕まれています。そしてこの<学習観>が学習とその成果にかなり強く影響を与えていると考えている人たちがいます。例えば東大で教育学を研究されている市川伸一さんは『勉強方法が変わる本-心理学からのアドバイス』(岩波ジュニア新書)という本を書いています。
彼は東大の研究者ですが、現場の生徒のことを知らないわけではありません。実際に研究の一環としてですが、学習アドバイスやカウンセリングを行っています。たくさんの生徒と話をし、学校の先生たちと情報交換し、そうした中で上記の本を書きました。
勉強のやり方、その考え方は人それぞれ違います。そんなこと、考えたこともないという人も、漠然としたものであっても必ず何かの考え方に立って何かの方法を採用しています。であれば、その本になる考え方と方法を見直すことは学習することにおいてとても大切なことです。それは自分自身を客観的に把握し直すことでもあります。
少し長いですが内容を少し紹介します。
実はこの文章の実践的な結論は、自分の勉強のあり方全体をたえず見直し、考えようということです。そしてその素材として市川さんの本(あるいはそれ以外のものも含めて)を読んでみませんか、ということです。ですから読もうと思っている人はここから先はもう必要ありません。
『勉強方法が変わる本』は「第1章 学習観を見直す」から始まります。その扉にこういう言葉が書かれています。
「『学習観』というのは、あまり聞いたことのない言葉だと思う。『学習とはどんな仕組みで起こるのか』とか『どのように勉強すると良いのか』というような、学習に対する考え方のことだ。
学習の仕組みを科学的な方法で研究するのは心理学などの役割である。しかし一方、どんな人でも、自分なりの学習観をもっていて、それに基づいた勉強方法をとっているはずである。それだけに、偏った学習観をもっていると、勉強してもさっぱり身につかないということが起こる。
じつは、この本全体が、君たち自身の学習観を見つめ直すための材料なのである。この章ではとくに、しばしば陥りがちな学習観とはどのようなものか、ざっと眺めてみることにしよう」
以下、目次を見てみましょう。あんまり細かすぎるといけないだろうから、適当に割愛します。
第1章 学習観を見直す
① 勉強方法の問題点を探る
1. 平方メートルは何平方センチメートルか
2. 言葉の定義にたちかえって考える
3. 手を動かしながら、頭を使う
② 学習のしかたに目を向ける
1. 失敗から学習のしかたそのものを見直す
2. 「やるっきゃない」と誤解されている御三家-漢字、計算、英単語
③ 学習の背後にある学習観
第2章 記憶する
① 英単語の学習の工夫から
1. あやふやな単語に時間を配分する-苦手単語集中法
2. 単語のイメージと使い方を知る-例文利用法
3. 単語どうしの関係をつかむ-関連づけ法
4. 構成要素から単語を理解する-構成要素法
② 記憶理論からみた勉強法
③ 記憶のモデルを考える
第3章 理解する
① 用語が理解できないのはなぜか
1. 日常モードと学問モードの言葉の習得
2. 定義と具体例をセットで学ぶ
3. 人に説明できるかどうかで自分の理解度をチェックする
② 図、公式、手続きの理解のために
1. 知覚像と写真像の違い
2. 公式をどう見るか
3. 手続きへの慣れと意味の理解のバランス
③ 文章を理解する
1. 文章理解には知識と推論が必要
2. 情報を取り込む枠組み
3. 英文解釈でも知識と文脈を使って推論する
4. 英文解釈における推論の具体例
第4章 問題を解く
① 問題を解くときの心の中
1. 公式を暗記するだけではもちろん解けるようにならない
2. ひとまず例題にチャレンジしてみよう
3. 問題解決に必要な知識と技能
② 「数学=暗記」説はほんとうか
1. 「数学は、解法の暗記だ」という説
2. 正統派は「自力解決」を主張して反撃
3. 解法暗記派と自力解決派の目標の違い
4. 認知心理学から見た折り合いのつけ方
③ 見おとされがちな勉強のしかた
1. 問題を解いていくだけでは学力がつかない
2. 問題を解くまえに-解説と例題を見る
3. 問題を解いた後に-教訓を引き出す
第5章 文章を書く
かなり長くなりました。
けれども、どうですか? ざっとみて何だか身につまされるような内容が盛り込まれていると思いませんか? あるいは日頃、私から、あるいは講師からいわれているようなフレーズが目に飛び込んできませんか?
そう思ったら本を買ってきて読んでみよう。
(高木)
私はもともと物理学専攻でした。
浪人が決まった3月か4月ころ、『クォークから宇宙へ』(という表題だったと思う)という本を読んだ。素粒子論と宇宙論がどのように密接に関わっているのか書かれていた。ごくごく小さな粒子について何かが発見されると宇宙についての理論的な認識が大きくつくりかえられる。ワクワクした。その本の中に丹生潔教授(当時)の研究が書かれていて物理やるなら名大にしようと思った。それまでは工学部志望だったが、物理そのものを勉強したいと思い始めた。こんなところに書いて良いのかどうか分からないけれども、物理の模試の偏差値38から物理学科志望するという、まぁ、暴挙に近いものだった。
いまも物理の本を読む。関心はどうしても動力学的宇宙論の形成・確立史方に傾きがちだけれども。
大学に入ったときのことをいまも覚えいている。4月、アパートは川名中学の近くにあり、校庭に桜が咲いていた。道に落ちていた桜の花びらが風に吹かれていた。その時、ある瞬間、ほとんどの花びらが縦になって一斉に転がりはじめた。それまで不規則にひらひらと翻っていたのが、あるスピードになったとき、十円玉がコロコロ転がって行くみたいに転がりはじめた。
何百という花びらが、ある瞬間、一斉に地面に垂直になって、転がりはじめた。ざざーっと音がしたような気がした。一つひとつの花びらが、ある統一した意思でももっているかのように一斉に同じ動きをし始めた。
上手く表現できないけれども、その瞬間、鳥肌が立つような感覚を覚えた。その感覚が、その時の情景と一緒にまだ身体のどこかに残っている。
何といったらよいのかな?大げさに言ってしまえば、世界の秘密の一端に触れたような気がした。一瞬のうちに世界が別の形に見えた。そんな感覚だったと思う。
ありていにいえば回転モーメントのなせる技だ。美しくない言い方をすれば脱水槽が最初、がたがた言いながらそのうち安定して回転するようになるのと同じ力が働いている。
物理を通して物事を見ると、それまで見過ごしていたものの中にいろいろなことを発見することがある。世界のいたるところに自然の法則は貫かれている。それは<見る目>さえあれば、いつでも触れることができる。その時、他の人には見えていない世界の姿が見えることがある。
物理に限らない。
しっかり学ぶと、世界は君たちにいままで見せてくれていなかった顔を見せてくれる。実用的なのかどうかはしらない。けれども、その手前のところで世界は今まで以上に豊かにその存在を開示してくれる。それは素敵なことなのだと思う。
(高木)
夏期講習の時期です。
このところブログの更新がぴったり止まっていて申し訳ありませんでした。
この夏に是非、生徒の皆さんに実行して欲しいことがあります。当然、勉強をガンガンやって欲しいということもありますが、そのやり方です。
①手を動かすこと
②調べること
③目的を捉えること
今回は手を動かすことの大切さです。
数学や物理その他の科目を見ていて、非常に手を動かすことが少ない生徒が目につきます。数式を見ているだけ、解説を読んでいるだけ、問題や解説に描いてある図をそのまま使っているだけ。
これでは掴めるものも掴めません。
数式が数式にしか見えない。数式が図形にもグラフにも見える。どちらが問題が解けると思いますか?当然後者ですね? どちらが数学や理科の本来の姿を捉えていると思いますか? きっと後者ですね?
これはみんな納得するところ。
ではどうやったらそうなるのか?
とにかくひたすら自分で手を動かすことです。実際に数式から図を起こす、グラフにする。グラフから立式してみる。式を変形させて、グラフがどう変わるかいくつもいくつも描いてみることです。
そういうことを繰り返していると、当然のことだけれども、数式的=抽象的・論理的世界とグラフ的・図的=視覚的・直感的世界の間の道が太くなります。ただそれだけのことです。実にシンプルです。
しかし頭で理解してもこれはダメなのです。楽譜を理解しても、楽譜から音楽が聞こえてくるようにはならないように、何度も何度も楽譜を実際の音にするということを繰り返すしかありません。
つまり「身体で覚え込む」わけですね。
しかしこの道筋ができあがると、膨大な計算に埋もれそうになっているときに、ふと図形的に処理したら簡単じゃないかと気がついたり、答えの数値を見て、あれ?何だかおかしいな、と思って間違いを見つけたり、そういうことができるようになります。頭の中で数式的なものと直感的なものとがいったいになって動いているからです。ひと夏かけてぜひこのことを実行してみてください。
数学的にも、例えば図形的な問題は、正しい手順で作図ができればある程度の確率でその問題は解けます。逆に作図ができないのに解けるということはほとんどありません。どのようにしたら正しく作図ができるかということのなかに、その問題のいわば本質の部分があることが多いからです。とても大切なことなのです。目の前の問題が解けるか解けないか以上に、物事の本質を捉えていく上で大切なのです。自分の手を動かすことで自分自身のものにしていくのです。
最近、17世紀の「科学革命」と言われる前の16世紀に大きな変化があったというようなことを書いた本を読みました。ルネッサンス期にどのように近代科学が準備されてきたのか、ということを書いた本です。
それを読んでいると、中世のスコラ的な緻密な論理を構築していた学者にかわって、手作業に従事していた職人・理髪師(外科医を兼ねていました)たちの経験の蓄積が大きな土壌になり近代科学が生まれてくる様が良く分かります。
手作業は具体的です。具体的なものに触れています。そして近代的な科学は、そうした「もの」との具体的な接触からしか生まれてはこないのです。
その職人たちの中からは、大学の権威と公然と闘うものが生まれてきます。実際に何もやったことがない、実験も、解剖もなにもやったことのない、経験したことのない、ただラテン語の文献を読むことができると言うだけのあなたたちが、どうして私たちに何かを教えることができようか、というわけです。そういう気概があふれてきます。
数学も物理も、およそ自然科学は、具体的な自然を、論理によって捉えようとします。あるいは数学的に捉えようとします。具体的なものを目の前に引き据えて、そこから出発しようとします。
高校での勉強も実はそう変わりません。本当のところは、その具体的なものを自分で描き出し、つかまえ、そこから数式が立ち上ってくる。そういう感覚はとても大切です。君たちがやっているのは、数学や物理や化学であって、問題を解く練習ではないのです。本当はね。高校から受験への英語が、やっぱり言葉として英語を捉えていくことができないと、ダメなのと同じように、ただ問題を解こうとするだけでは、本当に解けるようにもならないのです。
(高木)
【自分の学習方法などをちょっと考えてみましょう】
次にあげることは、私たちが指導の中でときおり(いやひんぱんに、というべきか)感じることです。ちょっと細かいですが思いあたることがありますか?
自分自身の勉強しているときのことを思い起こしながら読んでみてください。内容はへんに回答を誘導してしまわないようにランダムにしてあります。