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学習方法の検討のために(1)

学習方法の検討・再検討のために(1)
 
 今年の受験ももう最終局面です。同時に2年生が受験を本格的に意識し、そこにむけてスタートを切るべき時期です。
 
 やるべきことはたくさんあります。当然、学習時間の確保、そのための生活のリズムやあり方の変更も必要です。自分でやらない限り、どんな受業を受けようと、どんなテキストを読もうと、自分の力にはなりません。
 けれども方法が適当なままで学習を積み重ねても力にはなりません。
 
 いまこの時点で自分の学習方法を見つめ直してください。本当にこれでいいのか、本当にこういう勉強のやり方(量は別にして)で志望校に届くのか、真剣に考えるべきことです。いま、真剣に考えるべきことです。センター試験直前などにはもうそんなことをじっくり考えている時間がありません。また本当に有効な学習方法を検討し、自分のスタイルを作り上げていくことはとても大切だし、それがこれからの学習の効率・深度・到達度などを決めることを考えるとその影響はかなり大きなものがあります。
 そこでいまの自分の学習のあり方を検討するための素材として、『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』(山鳥重著 ちくま新書)からの抜粋を作りました。前半後半に分かれます。(できれば買って読んでみたらいいと思います。筆者は医学部で脳関係を専門にしており、そこから<分かる>ということを臨床を含めて考えてきた人です。参考になることが多々あると思います)
 
 まずは<分かる>とはどういうことなのか、ということについて。( )内はページ数です。
 
 
意味がわからないと、わかりたいと思うのは心の根本的な傾向です。生きるということ自体が情報収集なのです。それが意識化された水準にまで高められたのが心理現象です。意識は情報収集のための装置です。情報収集とは、結局のところ秩序を生み出すための働きです。
情報識別という根本的仕組みによって生命というひとつの秩序が誕生したのと同じように、その生命体が人間に至って心という新しい秩序を生み出したのです。この秩序は身体性を持つ身体のように手に取ることも、見ることも出来ませんが、行動という形式で外形化させることが出来、心という形式で経験することが出来きます。
わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます。(181)
 
 
 
犬、猫、牛、馬、烏、鳩だけしか動物を知らない、と考えてみてください。その場合はこの六種の動物がその人の知識の網の目になります。この人がもしキツネを見かけたとしたら、犬みたいな動物と判断するでしょう。あるいは犬そのものと判断するでしょう。イタチを見かけたら猫みたいな動物と考えるでしょう。ラクダを見たら変わったタイプの馬と考えるでしょう。鷲を見ても烏と思うでしょう。とりあえずは自分の頭の中にある辞書を使って判断するしかないのです。そのうち、キツネ、イタチ、ラクダ、ワシと、知識の網の目が細かくなります。網の目が細かくなると判断も細かくなります。すべて「犬」では満足出来ず、犬は犬でもスピッツか、チンか、コッカースパニエルか、ということになるでしょう。烏もハシブトかハシボソか、が気になるようになります。
知識は意味の網の目を作ります。網の目は逆に知識を支えます。ひとつひとつだと不安定ですが、網の目になると安定感を増します
網の目を作るにはまず記憶が重要です。しっかりした記憶を作らないと、しっかりした網の目は出来ません。言葉の記憶の網の目がしっかりしているから言葉がわかるのです。(184)
 
 
 
心理過程はすべて記憶の重なりです。知らず知らずに覚え込んだか、意識して覚え込んだかの違いはあっても、覚え込んだものが積みあがった結果が現在の心です。覚えることに嫌悪感を持たないようにしてください。記憶を嫌がっている自分自身が記憶の上に成り立っているのです。
知識の網の目が出来ると、何がわかっていて、何がわかっていないのかがはっきりするようになります。網の目が変なものをひっかけてくれるのです。(186)
 
 
 
誰も初めから知っているわけではありません。誰もが長い時間をかけて知識の網の目を作り上げているのです。あいつはE=mc²がわかっているみたいだが、俺はわからない、ということもあるでしょう。だからといって、悲観することはまったくありません。その人の頭にはわかるための素材が溜めこまれているのです。その気になれば誰にでも溜められます。日本人なら誰でも日本語が理解出来、日本語が話せます。これが理解の原点です科学の場合は、科学に必要な言葉を覚えればよいのです。ただし、近道はありません。言葉だって10年以上かかります。知識の網の目を作るにはそれだけの勉強が必要です。無から有は生じません。生命は自然に発生しません。パスツールが証明した通りです。知識だって同じです。自然には生じません。網の目を作り上げる人と、作り上げない人がいる、というだけの差です。ただそれだけのことです(188~189)
 
 
 
学校ではわからないことは試験問題とか、先生からの質問という形で与えられます。ですが、このように受け身の形で人から与えられた問題(わからないこと)が解けたからといって、知識が自分のものになるわけではありません。本当の意味でのわかる・わからないの区別の能力は人から与えられるものではありません。自分から自発的にわからないことをはっきりさせ、それを自分で解決してゆかないかぎり、自分の能力にはならないのです。(194~195)
 
 
 
筆者の引用はいつも古すぎて申し訳ありませんが、「十で神童、十五で秀才、二十過ぎればただの人」という言葉があります(間違っていたらごめんなさい)。学校で試験が出来たからといっても、それは与えられたことをこなしているだけで、その人の能力の尺度にはなりません。社会に出た時、なんやあいつ、と無能をさらすことになります。社会で生きてゆくには自分で自分のわからないところをはっきりさせ、自分でそれを解決してゆく力が必要です。
人間は生物です。生物の特徴は生きることです。それも自分で生き抜くことです。知識も同じで、よくわかるためには自分でわかる必要があります。自分でわからないところを見つけ、自分でわかるようにならなければなりません。自発性という色がつかないと、わかっているように見えても、借り物にすぎません。実地の役には立たないことが多いのです。(195)
 
 
 
この能力は作業記憶という言葉が示唆するように、何かを考えるためにはどうしても必要な記憶です
いま例に上げたくらいのことならごく簡単ですが、込み入った関係の理解ではもっと複雑な心像を操作しなければなりません。(198)
 
 
 
筆者が強調したいのは比較(円とドル)にしても、つながり(コインでジュース)にしても、比較すべき対象、あるいは遂行すべき過程を全部同時に意識に浮かべることが出来ないと、その課題を実行出来ないということです。意識にあるものがひとつだけでは比較のしようがなく、つながりのある行動の一部分だけでは実行のしようがないのです。
もちろん、どんなことでも同時に意識化出来るかというと、そうはゆきません。そんな場合、われわれはメモをとります。文や図などのメモを使って作業記憶を強化したり、代用したりするのです。図も文字もそういう意味で人間だけがなし得た大発明です。積極的に活用しない法はありません。(200)
 
 
 
経験的なことですが、わかったことは図に出来ます。中途半端にしかわかっていないことはなかなか図になりません。まるでわかっていないことはとうてい形になりません。わからない場合はまず図を作ってみることです。図というのは頭で同時に浮かべきれないことの手助けをしてくれます。同時に把持出来ないことを紙が代わりに把持してくれます。図をためつすがめつ見ていると、あ、わかった、やっぱりわからない、という点がはっきりしてきます。(200~201)
 
 
 
ちゃんとわかったかどうかは、一度実際に自分で行為に移してみないとなかなかわからないものなのです。
筆者の考えでは、わかるとは運動化出来ることです。
わかっていることは運動に変換出来ますが、わかっていないことは変換出来ません。
運動といわれるとピンと来ないかも知れませんが、話すのも、文を書くのも、絵を描くのも表現活動はすべて運動です。行為(発話行為、書字行為、構成行為など)という別の言葉を使いますが、要するに運動です。(203)
 
 
しっかりした心像が形成出来れば(表象出来れば)、それはそのまま運動に変換出来るということです。人間の心はそういう仕掛けになっているのです。
絵に限りません。すべての心理活動は同じ原理で動いています。
きちんとわかったのか、わかったと思っただけなのかは、一度その内容を自分の言葉で説明(表現)してみると、たちまちはっきりします。表現するためには正確にわかっている必要があるのです。ぼんやりとしかわかっていないことは、自分の言葉には出来ません。説明しているうちになんだかあやふやになってしまいます。あるいはごまかしてしまいます。わかったように思っただけで、実はたいしてわかっていなかったことがわかります。それに対して、ちゃんとわかっていることがらは自分の言葉で説明することが出来ます。自分の言葉で説明出来るのと、自分で箱の絵が描けるのとは、同じことです。話す、というのは行為であって、ちゃんと話すには内容の正確な把握が必要なのです。(204~205)
 
 
自分でわかっているのかわかっていないのかがわからない時には、言葉にしてみたり、図にしてみたりすればよいのです。そうすれば、わかったつもりでいたことが、実は何もわかっていなかったことがよくわかります。わかっていないところがはっきりすれば、それはとりもなおさず、わかるための第一歩となります。(206)
 
 
別の言い方も出来ます。すなわち、運動化するということは、形をはっきりさせるということです。はっきりさせないと運動になりません。あやふやがあやふやでなくなる、ということです。その分、理解も深まります。自分がわからないことは人にもうまく説明出来ませんが、うまく説明出来れば誰よりも自分が「よくわかる」ようになります(207)
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