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勉強することの意味

 勉強はなんのためにするのだろう? みんなあまり口には出さないけれど、こういう疑問をふと抱くことがあると思う。
 裏返しで、まだ目標(例えば志望校とか将来の職業とか)が決まっていないからどうしても勉強に身が入らないという声をきくこともある。

 目標が決まれば良いな、と思う。相談事でも少なくない。確かに目標が決まれば受験勉強の方針や戦略はすっきり立てられる。どのくらいやらないといけないのかゴールまでの必要な量や、要求される質もある程度目安ができる。

 でもちょっと疑問もある。
 以下、指導の中で書いたものです。かなり手を加えてるけど。



 志望校や職業などの目標がないと勉強する意欲が生まれないのだろうか?
 これは実は間違いです。私はそう思っています。
 確かに受験勉強はそうした面があります。
 受験勉強は受験という日程が決められ、制限時間内に与えられた問題を解き、必要な点数をたたき出す。そのための勉強だから、目標が決まらないと方針が非常に立てにくい。それは確かにそうです。けれども、そういう受験勉強にしても目標が定まらないことと勉強がなかなか本腰を入れてできないことはイコールではない。イコールにしているのは実は君たち自身です。だってそうだよね? 目標が定まらない、だから、どんな目標にも対応できるように勉強しておこうと考えることだってできる。だから目標が定まらない、ということと、勉強になかなか向かえないということとの間にある「イコール」の記号は、君たち自身の中にあるのです。

 しかし本音を言うと、勉強は目標があろうがなかろうがすべきものだと思う。
 生きた人間が、人間の歴史を受け継ぎ存在している限り、いまここにいる人間の責務として過去を未来につないでいかなくてはいけないのです。

 過去に生きた人間が、志半ばにして倒れたとして、それを誰かが引き継ぐとき、そこに人間の歴史が生まれる。引き継がれないなら、その存在は歴史的に無になる。そこに存在していた精神は、歴史の闇の奥の方に沈み込んで行く。いま生きているこの世界が存在しているのは、誰かが、他の誰かを、過去を背負ってきたからだと思っています。「現在」の恩恵にあずかっているとするならば、学ぶことは「生きることの責任」なのだと思う。

 それにいまの世界で、人間が人間を理解するために、社会を理解するために、世界を理解するために、その理解の枠組みを作り上げていくのが中学・高校の勉強です。大学ではできない、社会に出てからもやらない勉強がそこにはある。
 実際、日本史や世界史、地理、古文・漢文、物理、化学、生物、現代文でも芸術論から小説、社会科学的なものから言語論。あらゆるジャンルから文章が集められ、問題になり、解かされる。
 こんな勉強はもうないんだよ。だから高校生までに作られたイメージとか知識の大きな枠組みとかは相当に大きな影響がある。例えば、英語が好きで海外で英語を使って仕事をしたい。などとおもっていて「古文なんて何でやるのかわけわからん」と言っているとすごく損をする気がする。

 例えばイギリスが好きでそういう仕事をする人。大学でシェークスピアなどを読んだりする。イギリス文化に触れた気になる。そして勇躍、社会に出てイギリスで仕事をする。そこで「ねぇシェークピアのソネットについてどう思います? 私は結構好きなんですよね」なんて話をする。「知らないよ、そんなの。シェークスピアなんて古語だし。読んだことない」なんて言われたら「こいつ何?本当にイギリス人?」と思って軽蔑をおぼえるかも知れない。
 逆もあるんですよ。
 私がちょっと知っているベルギー人がいる。仕事もしているが、大学院に籍もあり論文を書いたりもしている。専門は「日本の美意識」で「近代以前に日本の哲学は美意識という形で存在していた」といい、観阿弥や世阿弥などの資料や文献を集めていたりする。そして近代日本の最大の哲学者として西田幾多郎を熟読している。その彼が「日本に来て、日本人が自分たちのことを知らないのでビックリした」といっていた。少し軽蔑が入り交じったような言い方だった。
 君たちが一緒に仕事をする相手の外国人はこういう人だったりするんだ。日本相手に仕事をする人はよく知日派、親日家といわれたりもするけれども異様に日本の歴史や文化に詳しかったりすることがある。観阿弥ってなに?などいったら、にこやかに対応しながら心の中で「なんだ?こいつは」なんて思われたりするんだ。
 別の例。これは私自身の恥ずかしい例です。
 以前に仕事でアフリカのウガンダから来ていた青年と一緒になったことがある。何度となく顔を合わせ、親しくなった。ある時、彼が誇らしげに一枚の写真を見せてくれた。家族の写真だ。妙な違和感をおぼえた。その写真には、背景のコロニアル風の大邸宅と、きれいに刈り込まれた広い芝生とバラ(だったかな?)が植えられた庭。そしてタキシードみたいなスーツとドレスを着た10人以上の大家族が並んでいた。
 妙な違和感の正体が分かったとき、本当に恥ずかしかった。きっと彼が破れたジーンズかなにかをはいて、汚いほこりっぽい小さな住宅を背にして写真に写されていたら当たり前のように受け取ったのだろうと思う。あるいは腰みのだけでヤリをもって写っていたってそうだったかもしれない。きっとものすごい深い差別意識みたいなものが私の中にあったのだと思う。ウガンダ=アフリカ=貧困・大平原と裸足で走り回る部族みたいなイメージだったのだと思う。
 彼に私の内部のことが伝わっていたのか、いなかったのか分からない。写真を見せたのは「こいつメチャクチャな誤解をしてそうだから見せてやるか」と思ったのかも知れない。けれど、多分、気がついてはいないと思う。もし気がついたらきっとショックだっただろうな、と思う。危ないところだった。本当に恥ずかしいことだった。あの時「知らないって言うことは、時には犯罪だなぁ」とつくづく思った。

 予定よりもとても長くなった。
 けれど、最後にもう一つだけ書いておきたい。

 目標が決まらない。やりたいことが見つからない、決まらない。
 だったら勉強すべし、だよ。

 自分が何が好きなのか、何ができるのか、どういうことをやっていきたいのか…… それは勉強をそれ相応に一生懸命やらないと分からない。自分が社会科的なことと理科的なこと、どちらが将来やっていけるのか、判断しようと思ったら本気で社会や理科を勉強してみないとわからない。
 実際に大ざっぱに言えば、勉強をやっている生徒の方が、自分が何にむいているのかとか、何がしたいのかとか、そういうことがある程度ハッキリしているものです。確かにハッキリしているから勉強やっているという面もあるけれど、勉強してきたから、ハッキリしてきたという面も強くあります。後者は忘れがちだけれど、とても大切なのです。

 だからしっかり勉強したらいいと思う。受験勉強本番に入ってしまうと、じっくり腰を据えて勉強することが難しくなる面もある。だから1,2年生のうちにしっかりやったらいい。

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