入試の結果が出てきてもそれをアップすることができないままでした。結果の全容はまた別途アップしますが、結果についてなかなか書けなかったのは一人の生徒の結果がどうしても上手く飲み込めなかったからです。
浪人生でした。私が直接指導もしていました。
重い2年でした。格闘してきた2年間でした。
けれども、思いもかけないことに、思いもかけない結果が今日、知らされました。
以下、お母様に打ったメール、ちょっと手を入れましたが、無許可でほぼそのまま転載します。(本人にも打ったけれども、それはやめておきます)
K様へ
合格おめでとうございました。そしてある意味で「ありがとうございました」。
今年の受験生を振り返ったとき、どうしても締めくくれないものがありました。もっと何かできたのではないか、もっと何かやるべき事があったのではないか、そんな思いがグルグルと回っておりました。やっと肩の荷を下ろすことができました。
精神的にもいっぱいいっぱいの受験だったと思います。
我慢強い子です。時々、爆発しますが、それでも辛いこと、苦しいことにじっと耐え続ける生徒でした。そのため私が見誤った時期もあったような気がしました。現役生にまじって黙々と歯を食いしばってやるべきことをやろうとしていました。
受験生となって2年。いま教室にきてからの記録のファイルを見ていましたが、私たちとの出会いは1年生の8月17日でした。初回面談があってその翌日には滝野瀬の個別がありました。それから約3年半。長かったですね。あまり良い想い出はなかったかもしれません。親会社が倒産し、教室が潰れ、閉鎖を余儀なくされました。払い込んだお金も戻らず、現役の時は合格がなく、模試の結果もなかなか出ませんでした。
浪人してからのセンター試験も今ひとつの結果にとどまり、慶應がダメで筑波・医がダメで、ほぼ大丈夫だろうと思っていた後期の愛媛大・医もダメでした。「東京理科大の薬学部にいきます」という彼女のメールを見て返す言葉がありませんでした。理科大の薬学部は悪くはありませんが、彼女が望んでいたことからすれば、そしてそこに投入されてきた苦しみや努力からすれば、あまりにもささやかなものにしかみえませんでした。「お母さん、お父さんに申し訳ない」とボロボロと泣いた日から、1年間、不安と孤独とたたかってきたと思います。泣き言も言わず、愚痴もこぼさず。その彼女が東京理科大の薬学に行くというのはあまりにも切ないものがありました。
でも、それもこれも、今日の(いや日曜日のでしょうか)ドラマのためのものだったのでしょうか?もしそうだとすれば、ちょっと意地悪なドラマだなとも思います。もっとすんなり合格を出してやってくれよ、と思います。それに値することはやってきただろう?と思いますから。
今日、ちょっとだけ涙を流しましたが、あれはうれし涙と言うよりも苦しかったことを思い出してのものだったように思います。厳しいことばかりで「喜び方」を忘れてしまったのかもしれません。それくらいシビアなプロセスでした。
何か実感がないと言っていましたが、きっとこれから筑波大学医学群・医学類を味わっていくのでしょう。
ようやくこれで彼女の努力に価するものが与えられたと思います。
やはり、この世の中、血の滲むような努力が報いられるものでなければ、いけないですね。そして本当に望みつづければ報いられるのですね。
本当に良かったです。
おめでとうございました。これで今年の私の仕事は締めくくりを迎えることができました。ありがとうございました。
筑波大学・医学群(医学類)=前期日程の合格が3月29日付けで出た。
合格通知書のコピーをもらった。教室に張りだした。京都大学工学部や名古屋大学医学部、岐阜大学医学部の合格者の氏名も張りだしてあるけれど、ごめん、滝野瀬の発案もあって彼女の名前と合格通知書を一番てっぺんに張り出させてもらった。
みんなの受験に投入した努力と格闘が軽いものだと言うつもりはないよ。結果のいかんに関わらず、大学のランクにかかわらず、そこには一人ひとり、とても重いものが含まれている。みんな自分の壁と格闘していた。それはよくよく分かっているつもりです。でもね、それでもなお彼女の合格通知は私にとってもっとも重いもものだったから。
(高木敏行)
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