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3年生へ 模試の直しと今後の模試に向けて

先日来、全統マークや記述、その他の模試を受けた人が多いと思います。
①模試が終わったら、ただちに直しをしてください。
②結果は必ず個別時に担当講師に報告してください。

【模試の直しについて】
模試は現状を把握する手段ですが、それだけに留まらず、かなり学習効果の高いものです。某塾は一説によると約100万円以上の経費と数人のスタッフを一定期間投入して一つの模試の一つの教科の問題を作るようです。解答/解説にもかなり力を入れています。
模試の時は通常の学習時よりもかなり高いテンションと集中力で問題に取り組んでいるはずです。ですから、その問題をしっかり直しておくと、それはかなり強く印象に残り、力になります。それをより強く、より深くするためには、模試が終わったらただちに直しをすることです。模試の時に何を自分が考えて、何をやったのかの印象と記憶が鮮明なうちにやりきってください。こうしたことをしっかりやっている生徒と放置している生徒とでは歴史前途その後の結果が変わってきます。

【模試の利用について】
模試は精一杯利用したいところです。

とりあえず受けてみてどうだったですか?
出来不出来はいろいろあると思います。けれどもその点数と結果に振り回されないようにしてください。出てくる数字は今後の課題を示しているだけのことで、未来を予言しているわけではありません。もともとここの生徒は、その模試の【予測】とはかなり大きく異なる結果を出してきています。現状の結果に縛られないようにしてください。

その上で、模試には課題を持って臨むと良いと思います。
まずまだ全体の力が足りないと思う場合は、何か一つでも二つでも単元を決めて、そこを攻略する。それが攻略できれば自分の現状の評価としてはまぁ良しとしていいと思います。まだしっかりやっていないところができないのは、当たり前のことです。ただやるだけのことです。けれども、しっかり勉強したはずの単元ができないのは今後の大きな課題です。これはよく考えないと大きな壁になります。
ですから、そういうテーマをもって臨むと良いと思います。

また例年、模試の時も(定期試験の時も)1番から解き始めるという生徒がいます。それで最後まで解ききれるのであればいいのですが、そうはなかなかなりません。
とるべき問題を必ずとる。それが大切です。入試でもだいたい65%~70%くらいの得点率が合否のボーダーです。(センターは別です
だから、2/3の問題をがっちり取り切るということがまず勝負の土俵に上がるためには必要になります。であれば、特に数学・理科ではある程度ターゲットを定めて問題を攻略すればよいし、またそうすべきです。
まずは問題全体をみて、どういう順番でやるのかはっきり見定めて解いていきましょう。
そのためには日常の勉強の中でやっておくと良いことがあります。
その辺はあまりに長くなりすぎるのでブログの方で。


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グラフ、図を描こう!=山鳥重氏の本から(3)

『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』(山鳥重著 ちくま新書)を参考にして…

「筆者が強調したいのは比較(円とドル)にしても、つながり(コインでジュース)にしても、比較すべき対象、あるいは遂行すべき過程を全部同時に意識に浮かべることが出来ないと、その課題を実行出来ないということです。意識にあるものがひとつだけでは比較のしようがなく、つながりのある行動の一部分だけでは実行のしようがないのです。
もちろん、どんなことでも同時に意識化出来るかというと、そうはゆきません。そんな場合、われわれはメモをとります。文や図などのメモを使って作業記憶を強化したり、代用したりするのです。図も文字もそういう意味で人間だけがなし得た大発明です。積極的に活用しない法はありません。」(200ページ)

ここで述べられているのは、対象や遂行すべき過程、問題演習ならば、問題の条件とその解法、それを支える定理などについてですが、その全体を同時に意識に浮かべていないと、上手くいかないということです。全体を同時に、ここがポイントです。
それをうまく遂行するために、メモをし、図を描き、グラフを描き、条件を整理し直すのです。これは必要だから行うことですが、しかし同時に、上手に図やグラフを使えるようになろうと思えば、「必要なときにだけ描く」のでは足りません。もっと端的に言えば「必要なとき」がわかりません。図示せよ、という問題なら簡単です。けれどもそういう問題ではなくても図示すると簡単明瞭になることは良くあります。それを見抜ければいいのですがそうはいかないこともあります。見抜けるようになるためにも、日々、数式や条件文からグラフや図を描いていることが肝心なのです。
「図やグラフがこの問題では必要ないと思ったから」という生徒がたくさんいます。概して、個別指導で講師からグラフを描けと指導される生徒に多い発言です。「必要ないと思ったから描かない」というスタンスが、グラフや図を描けなくさせ、またつかえなくさせるのです。その判断が出来るようになるためには日々描いていなくてはならないからです。

まずは描けるものは描こう。それはその問題にとって必要なのではなくて、君にとって必要なのです。君が数式的なものとグラフ的・図的なものを両輪のようにして駆使できるようになるために必要なのです
考えるべきは、その目の前の問題を解くことだけではないのです。その目の前の問題を解くこと、その解答を熟知することを通して、自分の中にどういう力と経験が蓄積されていくのかが大切なのです。
(高木)

豊田利幸教授から学んだもの=大学でのこと 4

 豊田利幸教授が亡くなった。享年89歳。
すでに教授については3回にわけて書いた。大学とはどういうところなのか、学問とはどういう姿勢で臨むべきものなのか、物理学とは何か、自然科学とは何か。そうしたことを講義を通して、言葉と存在をとおして教えていただいた。教えていただいたと思っているのは私の側だけのことだろうと思う。けれども、まぁそうしたものだ。

自然科学のもっとも根本的な立場として、人間に立ち、人間の感覚に立ち、その感覚によって人間と自然との関わりを捉えるところに立つものだと学んだ。何かの権威に寄りかかることではなく、何かの自分には確かめられないものに依存することでもなく、自らの目と、耳と、そうした感覚によって自ら<世界>と対し、それを捉え、自らが思考し、判断し、そして論理を構築する。巨大に膨れあがった自然科学や科学技術も、そのもっとも原初的な、あるいは根源的な姿において、そうした人間と自然とが切り結ぶ<場所>を内在させてなくてはいけないのだと教えられた。あるいは受け取った。

豊田教授が教えようとしていたことは、紙切れの上のことではなかったように思う。あるいは実験室の中でのことだけでもなかったように思う。彼が最も伝えたかったのは、物理学という学問のあり方と、物理学を学び、研究すると言うこと、あるいは自然科学を学び研究すると言うことだったのではないかと思う。
2000年に岩波書店から刊行された豊田教授の『物理学とは何か』という本が手元にある。200ページほどのさして大部とはいえない書籍である。その序文とあとがきから少し引用したい。

「物理学には教典とか教義という類のものは一切ない。むしろそういうものを排除し、それにまつわる考え方から自由であるように努めてきた。このことは物理学の研究と教育の二つの面で顕著に見られる。物理学における研究と自由の重要性が、自覚されるようになったのはガリレオ以後のことであるが、ここに到達するまでには、特にヨーロッパにおいて激しい宗教との闘いがあった。」(序文)
それはルネッサンス期から科学革命の17世紀にかけて激しくせめぎ合い、たたかわれる。ここで豊田氏は「自由」と一言書いているが、その自由とは人間の自由であり、閉塞した中世からの「人間」の解放であり、「人間」の復権であった。ガリレオは逍遙派のようにアリストテレスに依存し、その文献の解釈とスコラ的な論理的展開によって自然学を構築しようとはしなかった。落体の運動の実験は、何よりも人間の五感に直接に依拠し、立脚し行われた。彼は生身の人間の感覚の上に論理を構築しようとした。

豊田氏が学生に伝えようとしたのは、そうした近代物理学の立脚点だったのだと思う。
そしてそれをガリレオとそれ以降のマクスウェル、カルノー、ファラデーなどの研究と格闘を跡づけ、提示しようとしたのがこの小著だ。
「物理学の歴史はとりもなおさず物理学者の歴史であり、そこには人間のドラマがある。物理学者同士の葛藤があり、苦悩があり、喜びと栄光がある」(序文)と述べている。こうして彼は学校などで習う無味乾燥な物理らしきもの、問題を解くために公式や解法がまとめ上げられ、それを適用し、計算するという物理らしきものから私たちを解放し、人間のドラマとしての生きた物理学の姿を伝えようとしている。
そのために彼はガリレオの、ファラデーの、マクスウェルの生の言葉に触れるため、つまり彼ら自身に触れるために語学を学び、何度もイタリアに足を運んだという。

この本は小著だ。例えば山本義隆氏の大佛次郎賞を受賞した『磁力と重力の発見』(みすず書房)は1500ページを超える大部であり(超えていたと思う。)、その続編の『16世紀文化革命』(みすず書房)もまた1000ページを優に超える労作だ。それにくらべれば200ページなど本当にささやかな著作だ。
けれども豊田氏はこう述べている。
「本書の直接的な動機となったのは、1952年、はじめてガリレオゆかりのパドヴァ大学を訪れて以来、何度となくその地に足を運び、あるときは1年、ある時は半年とその地に滞在し、ガリレオに関する豊富な資料に接することができ、ガリレオを身近な存在として実感する好運に恵まれたことである。」
そして1973年中央公論社から豊田氏の責任編集で『世界の名著』シリーズの第21巻として『ガリレオ』が上梓され、1974年9月、ローマ大学でガリレオに関する講演を行った。その結果を湯川秀樹氏に報告。「物理学とは何か」というテーマで本を書いたらどうか、という提起がなされたとのだという。
そうして1998年、この小著の第1稿が起こされ、2000年11月に出版されることになった。
半世紀に及ぶ問題意識の持続と研鑽の上にたった200ページである。それを思うとき、私は粛然としてこの本を手に取る。

冒頭部分に私は「紙切れの上だけのことではなかった」と書いた。彼の講義にはこの格闘とその歴史が込められていた。字義どおりに、言葉どおりに彼の魂のようなものを込めて、伝えようとしていたものがあったのだと思う。それを中身もまだ良く分からないままに強烈に印象づけられたことある瞬間があった。
豊田教授の講義は情熱的な語り口などではない。淡々と冷静に、静かにはじまり、そして終わる。けれどもその空気の中に何かただならぬものは感じてはいた。その大きさと激しさを垣間見たことがある。
いつだっただろうか。季節も学年も覚えていない。私は大講義室の後ろの方に座っていたと思う。講義はいつものように淡々と進められていた。その途中、突然、豊田氏の言葉が途切れた。何か様子がおかしかった。顔色が土気色に見えた。誰も一言も発することが出来なかった。大丈夫ですか、ということすら出来ないような空気だった。黒板の縁でかろうじて身体を支え、やっと一言、「どなたか水をもってきてくれませんか」と言った。誰かが水を汲みにいった。そして何か錠剤らしきものを取り出し、服用した。その手は震えているように見えた。
ニトログリセリンだった。
狭心症の特効薬だ。つまり彼は講義の最中に狭心症の発作を起こしていたのだった。

狭心症は労作性などの場合、それほど深刻なものではないようだし、発作も比較的短時間でおさまる。とはいっても基本的に発作後は安静にするものなのだろうと思うが、豊田教授は静かに「5分後には講義を再開します。それまで少しだけ休ませてください」とだけのべ、そして言葉どおりに5分後には講義を再開した。
狭心症の発作を起こしてそのまま講義をするということが大変なことなのか、たいしたことではないのか分からない。けれどもその時、何か鬼気迫るものを感じたのは多分、私だけではなかったと思う。その講義の最中、学生たちは一様に張りつめた空気を感じていた。咳一つできないような空気だった。

後日、ある友人にその話をしたことがある。「豊田先生も頭悪いなぁ。そのまま休講にすれば学生も喜ぶのにさ」といった。その時、私は友人を一人失った。

彼のその講義の時に見せてくれた姿は、たぶん、ずっと消え去らないだろう。もうずいぶんと昔のことだ。けれども昨日のことのようでもあり、いまも生きている記憶でもある。その時わたしはきっと物理を学んだのではない。けれども物理学というものを学ぶということはどういうことなのか、ということを深く深く刻み込まれたのだと思う。

数学や物理について話をすることは多い。そのような時、ときどき豊田教授の、その時の姿を思い出すことがある。そしてその夜、彼の本を手に取る。私は何を受け継げているのだろうかと思う。何を伝えられるのだろうか、と思う。私は何を伝えられているのだろう、と思う。君たちに、何かが伝わっていますか? 何かが伝わっていればいいな、と思う。

でもそのまえに、まだまだ、もっともっと私も勉強しないとね。

大学でのこと=4(予告) 豊田利幸名誉教授が死去

 名古屋大学名誉教授の豊田利幸氏が15日、多臓器不全で亡くなられた。享年89歳。
恐らく私がもっとも強い影響を受けた物理学者であると思う。
学問をするということはどういうことなのか、物理学とはどうあるべきなのか、自然科学に携わる者はどこに立つべきなのか、大学とはどういうところなのか。そのすべてについて強烈な影響を受けた。
直接の師弟関係はない。大学の大講義室での講義を受講しただけのことだ。けれども彼の語る物理学の内容、方法、思想、そして彼自身の存在が、いまにいたるも私の中にくっきりとした形をもって存在しているような気がする。

豊田教授のことを通して、このサイトに物理のこと、自然科学のこと、大学のことについて少し書いてきた。「大学でのこと」と題して3回にわけて書いてきた。それらは各々強い印象を持って私の中に刻み込まれている。
けれどもそれらの内容・方法・思想というものを決定的に刻み込んだのはあるときの講義の彼の姿だった。書こうと思って、まだ書いていなかった一つのシーンがある。それをいま書こうと思う。

これは予告編です。下書きをはじめているのですが、なかなか多忙で書き切れそうにありません。けれども豊田教授が亡くなって、とりあえず一言、ここに記しておきたく、中途半端なままの文章を掲載することにしました。ご容赦されたし。

しかしまずは、合掌。
ありがとうございました。
(高木)

2009 合格実績 および 合格体験記(安島崇展)


<国公立大>

京都大(法) … 1名  
名古屋大(医) … 1名  
名古屋大(経済) … 1名
横浜国立大(教育人間科学) … 1名  
名古屋工業大 … 1名
静岡大(農) … 1名  
静岡大(人文) … 1名 

<私立大>

早稲田大(人間科学) … 1名  
藤田保健衛生大(医) … 1名  
金沢医大(医) … 1名 
近畿大(医) … 1名  
同志社大(法) … 1名  
中央大(法) … 2名 
明治大(情報コミュニケーション) … 1名  
青山学院大(理工) … 1名  
青山学院大(社会情報) … 1名  
東京理科大(理) … 1名  
南山大(経営) … 1名  
南山大(総合政策) … 1名  
南山大(情報理工) … 1名  
日本大(商) … 1名  
武蔵野大(文) … 1名
名城大(法) … 1名
名城大(経営) … 1名
名城大(理工) … 1名
愛知工業大(工) … 1名

 



<京都大学法学部 合格体験記> (安島崇展)

僕が受験というものにはじめて向き合ったのは高2の冬であり、初めて真剣に向き合うようになったのは高3になってからでした。
別に高2の冬まで勉強していなかったというわけではなく、後に得意(と思い込んでいた)科目の英語の基礎的な部分は高1や高2の時期に出来上がったと思っています。しかし、不得意科目であった数学に特に顕著でしたが、嫌な物から逃げ、あるいは自分の世界に合うように作り変えてしまう癖がついていました。
部活を引退し、突然受験が僕の前に姿をあらわしたとき、僕はまだ先のこととたかをくくり、生ぬるく受験と向き合いはじめました。何とかなると思いながら、とりあえず言われたことをこなし(時にやり残しながら)時間は過ぎて行きました。(結局これらの癖は完全に治ることは無かったような気がします。ただ、抑える努力は相当していたと思います。)
高三になって、正確には少し前の三月三十一日。個別指導のときに自分の現状と、自分のなんとなく目指していた目標の厳しさを知らされました。本当はもっと前から言われていたようですが、頭には入っていませんでした。
自分に足りないものを自覚すること、それを見据えて目標を設定し、計画を立てること。それが本当に大切だと思います。
自分の位置と行き先がわかってはじめて、本当に自分が前進しているのか、方向を間違えて遠回りしたり、最悪後退したりしていはしないかが分かります。目標に近づいた喜びも、後退してしまった悔しさも、自分の位置が分かっていないと味わうことはできません。さもないと無感動のままだらだらと時間は過ぎて行きます。ゲームのように受験を楽しむ気持ちを少し持つといいかもしれません。
言わば僕に合格までの地図を渡してくれた高木先生、滝野瀬先生、その他の講師の皆さんに深く感謝しています。本当にありがとうございました。
安島崇展

以上が安島君の合格体験記です。文面では伝わらないくらいの激しい格闘でした。高校名なども書こうと思ったけれども、やめておきました。彼は高校を背負って合格したわけではないからね。

彼については思うことがあり、また記したいことがあります。現在の生徒に伝えておきたいこともあります。ちょっとまた、書きます。
(高木)

その一問を大切に! できるようになるまで徹底的に解ききろう!

3年生へ。
問題演習の方法をもっともっと<できるようになる>ということを基準に徹底しましょう。

①演習の方法 1 
ときどき生徒から「例題の下の練習問題も解いた方が良いの?」という質問が出ます。
そこは良く自分で考えてください。結果を求める受験生にとって問題は「何をやったのか」ではなくて、「何ができるようになったのか」です。出来るようになったと思えるのなら解かなくて全然構いません。出来るようになったと思えないなら思えるまで徹底的にやることです。それ以外に基準はありません。そしてその判断は君たち自身がしなくてはいけません。君たちが判断できなくてはいけません。

基準はあくまで「やったかやらなかったか」ではなく、「できるか、できないか」です。精一杯やったかどうかではなく、合格するかどうかが基準になるのと同じです。

②演習の方法 2 スピード
演習で特にできなかった問題の解き直しは、速度を求めてください。
できなかった問題について、答えを見ながらやってみて、たどただしく出来る、という段階は、まだ「出来る」に入りません。そこでもう一度繰り返してください。スパッとできるようになる。そうなってはじめてその問題は、たぶん、少なくとも一旦は自分のものになったと言えるのだと思います。たどたどしく、やっと出来ている、という状態は、恐らく1週間後には出来なくなっています。自分自身にたたき込むような感じでやりきってください。
これは安田亨氏の方法でもあります。必要なものは、いわば無意識にでも手が動き、出来てしまうというくらいにまで自分に染みこませなくてはいけないし、そうした力だけが現実の力になるのです。

③ 派生的な分野について
数ⅢCの演習などをやっているとそれまでのⅠA、ⅡBでの弱さが浮かび上がってきたりします。
例えばⅢCでよく和積・積和を扱いますね?その時、三角関数が弱いと思ったら、必ず手当をしてください。良いチャンスなのです。課題が浮かんだらそれを必ず解決してください。

その際、注意点は、3角関数の全部をやろうと思って、例えば「いまはベクトルやっているから、それが終わったら」などと思わないこと。
そんなことをしていたら問題意識の鮮度が落ちます。またやることすら忘れます。それにいまやっていることができません。
だからもっと機動的に、いま課題が出てきたら、その中身をもっとハッキリさせて、その課題そのものを詰めてしまってください。積和・和積に触れた。その際、倍角、半角の公式などが弱いと思った。ならば3角関数全部でなくて良いのです。そうじゃない方が良いのです。ただちに倍角、半角を詰めるのです。問題を数問解けばいいのです。導出をしてみればいいのです。いますぐにやる。それが大切なのです。そうすることで、目の前のⅢCの問題がパシッと形になるのです。いまの目の前の問題がパシッとできるようにするために補うべきものを、補う。そういう感じで進めてください。

いまやっていることを完全なものにすることに全力を注いでください。そのために「その問題をやっているときに出来てきた課題」については、その場で詰めてしまってください。後に積み残さないでください。そこが詰められていないのに、100%にはならないのです。
(高木)

本の紹介 『出題者心理から見た入試数学』(芳沢光雄)

 これは参考書や問題集の紹介ではありません。でもちょっと数学の見え方が変わるかも知れない。そんな本です。

非常に面白いです。
数学に限らず、どんな入試問題も人間が作っています。その人が、いったいどういうことを考え、どういうことを目的にこの問題を受験生に解かそうとしているのか。例えばどういう数学の力を見ようとしているのか。どういう理解を問おうとしているのか。そういうことが少しでも見えてくれば問題の見え方が変わってくるかも知れない。

特に理系の受験生は読む価値があると思います。
ある程度、とばしながらでも良いです。内容的には作問者の問題意識が、ここまであからさまに書いて良いのかと思うくらいはっきり書かれています。そして高校数学のかなりの部分を横断していますから復習になる面も(面もです)あります。とばしながらでも、というのは必ずしも簡単ではないからです。

この本を読んだら数学が出来るようになるわけではありません。そういうことを期待してはいけないと思います。けれども数学の問題と、あるいはその問題を作った人と、いままでより深く<対話>できるようになるかもしれません。問題の向こう側に何かを感じるようになるかも知れません。それはきっといままでの受験数学の演習とはちょっと違う感覚の世界です。けれども力のある受験生は大なり小なり感じていることです。
入試問題を見ていると、ため息が出るくらい良くできた問題だなぁとか、これは苦労して作り込んだ問題だなぁと思うことがあります。ビックリするくらい鮮やかな問題があります。本物の数学の理解を要求していると思えて、こういう問題をつくって欲しいな、こういう問題が増えれば高校での数学がもっと深いものになるのだろうなと思うこともあります。逆の場合もあります。いったいなんでこんなつまらない問題を出すのかな、と思うことだってあります。ただただ苦労しろと言うことか、と言いたくなることもあるし、何という意地悪な、と思うこともあります。
そんなことを思って問題を見ていると少し裏側が見えるように思います。むろん「裏側」といのは本当は背景にある数学的な定理や事実なのだろうけれども、それとは少し違います。いわば問題を挟んで作問者と相対しているような、そんな感覚です。そういう問題との関わりがちょっと生まれるかも知れません。そんな本です。

★『出題者心理から見た入試数学 初めて明かされる作問の背景と意図』 芳沢光雄著 講談社・ブルーバックス


<追記>
同様のものとして佐藤恒夫氏の『センター試験で必要とされる力〈数学ⅡB+IA〉―元センター試験作問委員がズバリ教える! 』(小学館)があります。センター試験の委員をしていた佐藤氏がその背後で行われている検討の状況も含めて、どのような数学の力を問おうとしているのかをストレートに書いています。これはセンター演習の本としても使えるものです。
(高木)

手を動かす 追体験をする

 今日、ある生徒をしかりました。これはみんなに共通することだと思うのでここに書き残すことにしました。

 テキストに添付されている図やグラフに頼らないこと。自分で描くこと。自分の図やグラフを描くこと。自分で式を変形し、展開すること。ここの手を抜いてはいけない。
 
 問題集やテキストをしっかり跡づけながら追体験してほしい。
テキストに書かれていることは他人の経験に過ぎません。それを自分のものにすることです。そのためには自分がやってみることです。自分でやってみることです。自分でやってみて、それを確認するとき、数学の内側に入り込むとき、はじめてそのもっている意味の全貌が見えるのです。
 
 眺めているだけでは、読んでいるだけでは見えないものです。外側からみているだけでは、いくらキチンと追いかけているようでも内部を貫いてはたらいている論理は掴めません。
 君たちが掴むべきものは表面の流れ、手筋だけではありません。その中を貫いている論理であり、イメージの連鎖です。それを感じとるところまで追いかけてみてください。その時、いままで見えていなかった視界が開けうるのです。
 
 そうした一問、一問への対し方をしてください。今の学力が問題になるのではありません。いまの学習の緊張感、集中力、自分に対するシビアさ、適当に曖昧に理解したかのような状態を認めてしまう自分との格闘。そのレベルが志望校に届いていなければ、どれほど量をこなしても必要なレベルには到達しません。
 もっと大切に。その一問を通して何を掴むべきなのか、自問自答しながら、問題と会話しながら、勉強を、問題演習をやっていってください。

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