大学受験予備校 Veritas ホームページ http://www.veritasnagoya.jp
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暑くなって参りました。夏は決定的な差がつきます。ここでがんばりたいところです。
本日、5月分のコメントやご請求書を発送させていただきました。明後日くらいには届くと思います。
作業の関係で、Veritas Letterが間に合いませんでした。申し訳ありません。来月分に一緒に同封いたします。よろしくお願いいたします。
また夏期講習の準備に入っております。
スケジュール等できましたら郵送物、メール等でご連絡いたします。
(高木)
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昨日、今日、全統記述など模試を受けた人は、
当日ないし翌日中に必ず直しをやりきってください。最優先だと考えてください。
①模試の6、7時間は密度の高い学習になり得ます。けれども、そうするのは直後に直しをする場合です。
この問題で現場で自分が何を考えていたのか、何を考えられなかったのか、そうしたことが鮮明なうちに直してこそ、次につながります。次につなげてください。
②模試の直しを通して、自分の志望校に向けて、
いまの学習でよいのか、おおきな改善が必要なのか、改善すべきことがあるとして、それは何か、どうすべきなのか。
そうしたことを掴んでください。直接の結果よりもその方が大切です。逆に言えば直しはそのためにやるものです。だからこそ、高いプライオリティでやるべきです。
何かを変えなくてはならないのであれば、すぐに変える。そして実行する。そのためにはまず直しが終わっていること、そして自分の現状を分析していることです。
③直しとその結果=自分の学習状態に対する判断と今後の方針について考えたことなどを個別にもってきてください。
(高木)

以下の文章はかなりヘビーなものです。けれどもいま直面している課題でもあります。思いあたる生徒もいると思う。その場合は、本当に自分自身の思考のプロセス、内容、そうしたものを根こそぎ変えてしまうようなことが突きつけられることになると思う。また実際の指導の中でそうしたことに直面していると思う。その課題について少し書いてみました。
この1,2年、いやもっとか。言葉について考えさせられることが多い。主語と述語、主節と従属節、順接と逆接。そうしたもっとも基礎的なことがらが崩れ去っているケースが目出す。論理が言葉の規則の上にのっている以上、言葉の統辞法のレベルでの崩れは、論理そのものが成立する根拠を失わせる。
いま読んでいる哲学者の鷲田清一が「哲学が小難しい概念的展開だけに堕してきてしまった」という趣旨のことを述べ、「聴くことの意味と力」を主張し、臨床哲学を提唱する。それはそれでいい。けれども、事態は彼の想定を遥かにこえて深刻なのではないか。
身体は、表情は、呼吸は「論理」たりうるだろうか。
確かに身体にも、表情や呼吸にも、あるいは言葉の肌理にも、論理は宿る。それらは具体的であるからこそ豊かに様々な含意や可能性を開示する根拠になるだろう。けれども、それらはメタレベルを現しうるか。現し得ないのならばメタレベルの思考はやはり言語を介在させる以外にないのではないか。つまり抽象的なことを抽象的に表現する場がそこにあるのか、ということだ。それがなくなってしまうことがどれほど深刻な事態であることか。
鷲田はおそらく、そのメタレベルに道を開くことのできる言語の成立根拠を問うているのだろう。あるいはそうした問題意識を含んでいるのだろう。
けれども私には彼が考えている地点がとてものどかな、牧歌的なところに思えてならない。それは「哲学の死」どころではない。敬語表現やいわゆる「言葉の乱れ」などという次元でもない。もっと言語の言語としての存立そのものの基盤である統辞法の解体とでもいうべき事態の進行なのではないかと思える。
少し前に市川伸一氏の学習論(例えば『勉強法が変わる本』など)を読んだことがある。また実際の学習カウンセリングの現場からのレポートや論文も少しだけれども目を通した。参考になることは多い。とても多いと言っていい。そこでも学習において「カウンセリング」が必要な子どもたち、生徒たちが登場するが、それもまた長閑な、牧歌的なものに見える。
例えば書かれている文章と、それを読む側で分節構造がずれていたらどうなるか。英語でスラッシュを入れて文の構造を掴みながら読むやり方があるが、スラッシュの入れ方が間違っていれば文章の正しい解釈はできない。同じことが日本語で起こっている。これは国語力といえばそうだが、国語という教科のことを言っているのではない。例えば数学でも同じだ。日本語だけではなく、数学にも理科にも起こっていると思える。
問題文の条件を書き出しているときの目や手の動きを見ていると、明らかにその問題文の文節の構造、数式の構造、条件と帰結の関係などと無縁の動き方をしている。
例えば等式を=の左右を各々の塊として捉えず、○○△△□=■●▲▲◆◆という等式があった問して、それを書き出すならば丸ごと一つとして書き出すか、左辺、右辺ごとに書き出すのが合理的だろう。けれども、○○△△□=■●▲で書き出している手がとまり、▲◆◆だけが独立してまた書き出される。本来の等式の構造がぶちっと切断されたところから再構築がはじまる(あるいははじまらなかったりする)。
少なくとも書き出しているときに働いている思考は、数学の論理と異質だ。端的に言って数学の論理の要請にしたがって数式を捉えてインプットし、アウトプットしているのではなく、一見して記憶しできるユニットの大きさに即して対象を切断し、移し替え、貼り付けて「再現」している。その時、書き写された数式はもとのものと同じ姿をしている。けれども、それはすでに根本的に異なる論理の上にのせられている。
あるいはいつのまにか等式の等号を書かないで、紙上には○○△△□と■●▲▲◆◆が独立しているかのようにして書かれている。「等号は?」と聞くと「いや頭の中にあるから」などという。ここで数学の論理は完全に切断されている。頭の中にあるからでいいのか?等号は右辺と左辺の関係を規定しており、その関係に論理が存在している。論理とは何かと何かの関係にこそ存在するからだ。
だから等号を書かないことは、その論理を切断することと等しい。そして「頭の中にある」という形で別の論理を作っているといって間違いない。
この生徒は、こういう「手抜き」の表記を中2くらいから初めて高校3年生まで延々と続けてきた。そうやって自分の内部の数学的論理を突き崩してしまい、等式の同値変形ができなくなっていた。
では、等号を書くようにすれば戻るのか?
戻らなかった。
まず等号をきちんと書く(つまり右辺と左辺の関係を明確にさせる)ことがなかなかできるようにならない。巨大な習慣の力がすでにガッチリと根を張っていた。
それに結局、いつまでも等式の同値変形が通常の求められるレベルでできるようにならなかった。
数年間かけて自分の内部の数学的論理を解体し、かわりの数学できはない何かを作り上げてしまってきていた。数学という一つの「言語」の解体の場に立ち会ったような気分だった。全力を尽くし、問題点を解明し、提示し、格闘したが、それは成功したとは言い難かった。
このとき正しいことを教えるだけでは解決しないということを思い知った。間違って作り上げられたものをいったんは徹底的に破壊しなければ、数学的に正しいことがほとんど入っていかない。そうした事態に直面した。G・バシュラールの認識論的障害と認識論的切断という概念が身につまされて理解できた。
いまも日々、直面している課題だ。おそらく今後ますます増えるだろうと思う。
これはもう学習方法とか解法とかというレベルの指導では太刀打ちできない。いわば思考のプロセス、思考すると言うことそのものにかかわっての課題だというべきだろうと思う。
現れは本当にささやかなものだ。微かな匂いのようなものだと言っても良い。微かな匂い、違和感をともなったそれを感じたときには、本当に全力で生徒の内部のプロセスにアクセスしないといけない。その現場からスタートするしか出口はない。
この格闘のプロセスは講師にも苦しいが生徒はもっと苦しいと思う。本当にいままで積み上げてきたものをいったん壊さなくてはならない。そのことの苦しさは想像を超えるだろうと思う。けれども、それしか道はない。この確信は間違っていないと思う。
そうした課題に直面したら、全力で、すべての力を振り絞って格闘して欲しい。私も闘うから。
PS
課題だけ書かれて、解決策がないではないか、といわれたら、確かにそうです。ヒントだってないかもしれない。
けれども、課題がはっきりすることは、その解決への第一歩、避けて通ることができない決定的な一歩です。そのためになれば、と思います。
苦しいのは君だけではないんだ。
(高木)

このたび、ようやく京都大学工学部に合格することができました。私の京大への道のりは長く、また時につらいものした。しかし、今となっては、それはつらいものではなく、決して良いこととは言えませんが、それなりの経験ができたと思えるのでそのことを記していこうと思います。
まず、簡単に述べると、私は、2浪して京都大学に合格することができました。それでは少し詳しく合格までの道のりを書いていきます。
私は、現役生の時も明らかに実力不足とわかっていながらも、京大を受験しました。結果は、当然不合格でしたが、その時は、あまり悔しい思いなどせず(多少は悔しかった)、浪人をすることにしました。あとあと考えてみると、このとき浪人をするという気持は、自分で言うのも何ですが、かなり強かったのですが、悔しい思いをそれほどしなかった(受験に本当に命をかけるくらいの気持ちでいれば、当然悔しい思いはするのですが・・・)ことが良くなかったと思います。
1浪のとき、自分なりに精一杯、勉強に臨み、模試でも一応B判定が出るくらいまで実力がつきました。そして、そこで油断することもなく、センター試験も今までで一番良い点数を出せ、あとは二次試験でいつも通り実力を出せば、合格できるという状態になりました。しかし、二次試験が始まり、1日目の1科目の今まであまり点数のとれなかった、国語は自分としてはでき、安心したのも束の間、2科目目の数学で問題が発生しました。確かに、数学はそれほど得意ではなかったのですが、試験本番ということもあってか、どの問題も難しく見えてしまい(実際、難化したとはいえ、6問中2問は確実に完答できるような問題であった)、パニックになり、全然手がつきませんでした。そして、2日目、数学の不出来を何とか挽回しようと臨みました。そして、英語は自分としてはとてもできたという感覚があったので、最後の科目の理科に望みをつなげました。理科の試験が始まり、いつも通りの順番で問題を解いていくと、なぜか普段ならば、すぐに答えられるような問題でつまづき、時間は十分あるにもかかわらず、またパニックになり全然実力を出し切れませんでした。そして帰り道、現役生の時とは比べものにならないくらい悔しくて(なぜなら、1年間友達に会うこともなく、ほとんど人とも話さずに、受験勉強にのみ打ち込んでいたにもかかわらず、全然実力を出せなかったから)泣きながら(笑)歩いて帰りました。このとき、何事にも動じない確固とした精神力の大切さをとても感じました。そして、非常にありがたいことに、両親が後期試験で合格した某N大学に通いながらなら、もう一度だけ挑戦することを許してくれました。
そして、大学に通いながらの2浪(仮面浪人)のとき、もう合格するだけの実力は十分あるとわかっていたので、その力が落ちないようにしていくことになりました。大学に通いながらと言っても、めんどくさいので、最低限の出席と単位だけとれるくらいしか手をかけず、情が移るといけないので、友達など作らず、誰かに話しかけることすらしないで、あとは大学の図書館で勉強という、本当にに大学など相手にしていない生活を送っていました。受験勉強も長くなり、自分でも良くないとわかっていながらも、だんだんこなすだけの勉強になっていきました。センター試験が、近付いてくると、さすがにこれではまずいと思い、気持ちを切り替えました。しかし、あまり良くないことなのですが、センター試の点数配分的にセンター試験は全く気にしていなかったので、社会の勉強しかしませんでした。その代わり、二次試験の勉強に力を入れました。その結果、センター試験は今までで一番悪い結果になりました(センターリサーチでも一番悪い判定)(笑)。それで、両親にはもう無理なのではないかと言われたりすることもありましたが、1浪時に学んだ動じない気持ちがあったので本当に全く気にしませんでした。センター試験が終わってから少ししたころ、高木先生からこなす勉強になってないかとすこし強く言われ、さらに気持ちが固まり、残りの期間今まで以上に集中して臨みました。ついに、二次試験の日になり、去年のようにどんな問題がきてもパニックなどならないよう自分に言い聞かせました。1日目、またも国語はできたつもりになりました。そして数学、去年と比べると非常にやさしい典型問題ばかりだなあと感じながら、あまりパニックになることもなく終えました。しかし、試験終了直後、どの問題も少しずつミスしていることに気づき、少し焦りました。けれども、去年の経験と今までやってきたことを考えると、絶対挽回できると確信していました。
そして、2日目、英語の出来もよく、残すは理科となりました。試験開始少し前に気持ちを固め、試験が始まると、化学に難しい問題があることがわかりましたが、それは今まで見た問題の中で非常に難しい問題の類であったので、周りもできないだろうときっぱり解かないと決め、他でとると決め、見事それがうまくいきました。帰り道、ところどころミスしてしまったけれども、できることはやったという気持ちであったので、去年のように泣くこともなく、おそらく受かったであろうと良い気分で帰りました。結果はもちろん合格。
以上が私の京大合格までの道のりです。まわりからは、「よく大学行きながらやったなあ」とか言われたりしますが、自分としては、どうしても京大にいきたいという思いがあったので、確かにつらい時もありましたが、全然すごいことでもないような気がします。私の経験から言えば確かに学力も必要ですが、自分が受験勉強に対して、「どうしてもどこそこの大学に行きたい」とかいうような真剣な気持ちを持って臨むことが、それ以上に受験をする上で根底になければならないと思います。
最後に、浪人でありながらも受け入れてくれた、高木先生、滝野瀬先生、そして登先生、またその他の講師の皆さんに深く感謝しています。
本当にありがとうございました。長文、長々と失礼しました。

受験勉強をした一年と数ヶ月の間、私には全く先が見えませんでした。先が見えないというよりも、自分の現状が把握できていませんでした。今でも正確には分かりません。ただ、一月半ばの時点でも「合格」というゴールに向けてスタートした場所から、そう遠くないところにいたと思います。そしていつまでもその状態から抜け出せない自分にあせったり、半ばあきらめかけたり、改善に向けてふんばったりしました。といっても、ふんばり始めたのは高三の夏休みも半分が過ぎたころだったし、正直、それからもだいぶ逃げました。改善すべき課題が見えてきても、途中で放り出すことがほとんどでした(高木先生、滝野瀬先生、すみませんでした…)。勉強と正面きって向かい合い始めてからでもそんな状態だったのだから、当然それまでに積み上げられていたものは無に等しく、ものによってはむしろマイナス状態。特にひどい状態だった数学は既に異次元の産物と化し、破壊と再構築を試みて高木先生の個別に挑むも、己の甘さや傲慢さゆえに自己中心的性質他もろもろの状況は一向に改善されませんでした。
加えて他の教科も本質的には数学と同じ問題を抱えていました。前に進めないことや、同じ学部を目指す人々はもちろん、同級生から何十歩も遅れを取っていることが悔しく、苦しく、惨めでした。特に夏から秋にかけては、焦ってへこんで、逃げてへこんで、の繰り返しの毎日でした。
十一月に推薦入試で初めて入試に失敗したあと、やっと、等身大の己の姿が見えるようになってきて、以前よりも事象と真に向き合うことを意識するようになりました。一月のセンターの大失敗を迎えたころには自分の学力不足を改めて痛感し、わずかながらこれまでやってきたこと全てを来年の入試の糧とする覚悟を決めて今年の私大の入試を終えました。
その後、思いもよらない奇跡に見舞われて大学に合格をもらうことができましたが、私個人の明らかな学力不足や、ゆがんだ性質(性格)など問題は未解決のまま山積みです。これからの大学生活の中で、自らの目標のためにも少しずつ、しかし必ずや改善してみせます。
最後に、Veritasの皆様―特に高木先生、滝野瀬先生、小澤先生―、そして家族をはじめ、医師を志すという私の途方もない野望を支持し、支えてくださった皆様へ。
ここに至るまでに多大なる迷惑をおかけし、大変お世話になりました。
本当に、ありがとうございました。
谷口 奈都希

筑波大(医) … 1名
名古屋大(医) … 1名
京都大(工) … 1名
岐阜大(医) … 1名
慶應大(環境情報) … 1名
慶應大(看護) … 1名
近畿大(医) … 1名
東海大(医) … 1名
愛知医科大(医) … 2名
名古屋工業大 … 1名
信州大(理) … 1名
立教大(コミュニティー福祉) … 1名
東京理科大(薬) … 1名
東京理科大(理工) … 1名
関西学院大(社会) … 1名
立命館大(文) … 1名
立命館大(情報理工) … 1名
同志社女子大(薬) … 1名
藤田保健衛生大(看護) … 1名
愛知学院大(歯) … 1名
朝日大(歯) … 1名
東邦大(理) … 1名
南山大 … 1名
中部大 … 1名
拓殖北海道短大 … 1名

こんなことを教室のブログに書いて良いものだろうか、とちょっと迷わないではなかった。けれども、書こうと思う。何も飾ろうと思わないし、何も隠そうと思わない。
***
この春で佐竹、宇田、竹内の3名の講師が辞めることになった。
苦労を分かち合った講師たちだ。旧教室の立ち上げ段階からの講師たちだ。
このブログだけでは分からないと思うけれども、わたしたちは3年前に親会社の倒産=教室閉鎖という事態に直面した。
2006年。私は名古屋で新規に高校生専門の予備校を立ち上げたいから教室の責任者としてきてくれないか、というオファーがあり着任した。5月だった。その1年後の4月には3人の卒業生を出した。一人は推薦で中京大学の心理学部に進み、あとの二人がいま講師をしてくれている石川君と教務の兼岩さんだった。彼ら、彼女らを送り出した4月から3ヶ月もたたない、6月25日、一枚のFAXが本社から流された。「荷物をまとめて教室を閉めるように。あとのことは弁護士に任せるように」とされていた。もう3年ほどになる。
このFAXの段階では本社に電話も通じなかった。弁護士事務所に何度も電話したが回線がいっぱいになっているようで、つながらなかった。名古屋校は収支で言えば非常に優良だったと思う。ほとんど退会のでない教室だった。けれどもどうしようもなかった。
その日、本当はもう閉めていなくてはいけない教室に、まだ残っているとき、生徒と保護者の方が数名こられた。営業内では居留守を使うべきだという意見もあった。けれども結局、現場の判断で対応し、分かる限りの状況を説明した。
大きな非難が私に突きつけられた。当然のことだった。
一方、その場で2名のお母様から「教室を存続して欲しい」という要望が出された。受験生のお母様方だった。生徒もいた。私は涙を抑えることができなかった。もうこんな教室は2度と作れないとも思った。その教室はただ勉強を、ただ受験の技術を教える場ではなく、人間と人間の魂のようなものがぶつかり合い高熱を発するような、そういう場所にしたかった。そうなりかかっていると思っていた。すべてを投入して作り上げつつある教室だった。
その会社の営業スタイルのため、授業料や教材費は前払いで払い込まれていた。その返還をめぐって、あるいは教室の今後をめぐって大きな問題が発生した。営業職員、マネージャーはすべていなくなった。
私ももうすべて終わりかと思った。
けれども大きな力が背中を押してくれた。生徒への責任もあった。ここで逃げたら一生、私は陽の光の下を歩けないと思った。それにふだんえらそうなことを行っている私がここで逃げたら、生徒たちは「しょせん、大人なんてそんなもの」と思う。それはどうしても耐えられなかった。
現状の生徒への連絡だけはつけないと、とパソコンにはり付き、ブログを立ち上げ、情報を配信し始めた。激しい非難も浴びた。ブログ上は激しい応酬にもなっていた。そして2週間後くらいに保護者の方々の50名か60名くらいの集まりをもつことができた。そこから保護者の方々の被害対策の具体的な行動がはじまっていった。
そうしているあいだ、受験生が放り出されていた。何とかしなくてはいけなかった。
生徒のご両親がやっているお店、公共の場所、講師の関係の囲碁教室。そうしたところを渡り歩きながら必死に指導を維持しようとした。「教室という箱がなくても、生徒と講師がいれば授業はできる」と信じた。佐竹はその時の私のことばを覚えてくれていたらしい。先日、最後に手紙をくれて、そのことが書いてあった。
佐竹、竹内、宇田の3人は、あの当時、どんな無理もおして教室存続に動いてくれていた。文字通りの意味で「献身的」だった。
そして生徒の保護者の方の一人が出資者になってくださり、いまの教室が立ち上がった。
不思議な気持ちだった。
保護者の方の支援、教室再開を待ってくれていた生徒立ち、その応援、献身的な講師陣…。何とも言えない見えない力に背中を押され、力を得て、この教室は立ち上がった。
ここは人間の力が集まり作り上げられた場所なのだと強く思う。私の力でもなく、誰かの力でもなく、様々な力が一つに集まりつくりあげた、小さな奇跡のような場所のように思う。彼らの力がなければ、この場所は存在していない。
先日、倒産に際して立ち上げたブログを読み通した。
胸が痛んだ。私は以前の教室の保護者の方に、生徒のみんなに対してもっと背負うべきものがあったと思う。「教室閉鎖のショックで子どもが下を向いてしまっている」というメールも読み直した。私は彼に何をしただろうか。新教室が立ち上がって、そのハードワークの中でやるべきことをやりきれていなかったと思う。胸の中に焦げ付くようなものが広がった。いまも広がったままになっている。
でも、だからこそ、この場所を守り、育て上げて行かなくてはいけないのだと改めて思う。
今年、浪人となってしまった生徒が4人いる。そのうちの3人が、元の教室からの生徒たちだ。ごめん。君たちにとって私はよい講師だったのだろうか? 胸の中に渦巻くものがある。もっとできることがあったような気がする。もっと何かあったような気がする。生徒の中に必ず可能性が宿っているのなら、私はそう信じているのだけれども、そうであるのなら、失敗に終わった結果にたいしてどうしても苦いものが残る。そしていつも「何かなかったのか?」と思い続けることになる。
この春の受験でほぼすべての旧教室の生徒が卒業した。
先日の筑波大学の医学群(医学類)に合格した生徒もその一人だった。少しは私も報いることができたのかな、償えることができたのかな?
春になると必ず成功・失敗の結果が出る。そして生徒たちが卒業していく。そのたびに様々な思いが胸の中を渦巻く。私で良かったのか?、ここで良かったのか?といつも思う。生徒と一緒に闘ってきたとは思う。死力を尽くしたとは思う。けれども、ただむやみに苦労させただけではなかったか、と思うこともある。もっと伝えるべきことがあったような気もする。
けれども前に向かって、解き放つようにして送り出さなくてはならない。未来ということばを希望ということばの同義語にするのは、これからの君たちの力だよ。がんばれよ。負けるなよ。
佐竹、竹内、宇田はそんなこの<場所>を、一番最初から、倒産という巨大な自体を越えて一緒に作り上げてきてくれた講師たちだ。
なのにいつも横柄で、文句ばかりつけていたような気がするな。申し訳ない。
でも、私は君たちに支えられてきたのだと本当に思うよ。君たちがいなかったら、きっと私はここにはいない。心から感謝します。ありがとう。
これから一人ひとり違う道を歩むけど、頑張れよ。私ももうちょっと頑張るよ。まだ負けないさ。
ほんとにいままで、ありがとう。
教室長 高木敏行

入試の結果が出てきてもそれをアップすることができないままでした。結果の全容はまた別途アップしますが、結果についてなかなか書けなかったのは一人の生徒の結果がどうしても上手く飲み込めなかったからです。
浪人生でした。私が直接指導もしていました。
重い2年でした。格闘してきた2年間でした。
けれども、思いもかけないことに、思いもかけない結果が今日、知らされました。
以下、お母様に打ったメール、ちょっと手を入れましたが、無許可でほぼそのまま転載します。(本人にも打ったけれども、それはやめておきます)
K様へ
合格おめでとうございました。そしてある意味で「ありがとうございました」。
今年の受験生を振り返ったとき、どうしても締めくくれないものがありました。もっと何かできたのではないか、もっと何かやるべき事があったのではないか、そんな思いがグルグルと回っておりました。やっと肩の荷を下ろすことができました。
精神的にもいっぱいいっぱいの受験だったと思います。
我慢強い子です。時々、爆発しますが、それでも辛いこと、苦しいことにじっと耐え続ける生徒でした。そのため私が見誤った時期もあったような気がしました。現役生にまじって黙々と歯を食いしばってやるべきことをやろうとしていました。
受験生となって2年。いま教室にきてからの記録のファイルを見ていましたが、私たちとの出会いは1年生の8月17日でした。初回面談があってその翌日には滝野瀬の個別がありました。それから約3年半。長かったですね。あまり良い想い出はなかったかもしれません。親会社が倒産し、教室が潰れ、閉鎖を余儀なくされました。払い込んだお金も戻らず、現役の時は合格がなく、模試の結果もなかなか出ませんでした。
浪人してからのセンター試験も今ひとつの結果にとどまり、慶應がダメで筑波・医がダメで、ほぼ大丈夫だろうと思っていた後期の愛媛大・医もダメでした。「東京理科大の薬学部にいきます」という彼女のメールを見て返す言葉がありませんでした。理科大の薬学部は悪くはありませんが、彼女が望んでいたことからすれば、そしてそこに投入されてきた苦しみや努力からすれば、あまりにもささやかなものにしかみえませんでした。「お母さん、お父さんに申し訳ない」とボロボロと泣いた日から、1年間、不安と孤独とたたかってきたと思います。泣き言も言わず、愚痴もこぼさず。その彼女が東京理科大の薬学に行くというのはあまりにも切ないものがありました。
でも、それもこれも、今日の(いや日曜日のでしょうか)ドラマのためのものだったのでしょうか?もしそうだとすれば、ちょっと意地悪なドラマだなとも思います。もっとすんなり合格を出してやってくれよ、と思います。それに値することはやってきただろう?と思いますから。
今日、ちょっとだけ涙を流しましたが、あれはうれし涙と言うよりも苦しかったことを思い出してのものだったように思います。厳しいことばかりで「喜び方」を忘れてしまったのかもしれません。それくらいシビアなプロセスでした。
何か実感がないと言っていましたが、きっとこれから筑波大学医学群・医学類を味わっていくのでしょう。
ようやくこれで彼女の努力に価するものが与えられたと思います。
やはり、この世の中、血の滲むような努力が報いられるものでなければ、いけないですね。そして本当に望みつづければ報いられるのですね。
本当に良かったです。
おめでとうございました。これで今年の私の仕事は締めくくりを迎えることができました。ありがとうございました。
筑波大学・医学群(医学類)=前期日程の合格が3月29日付けで出た。
合格通知書のコピーをもらった。教室に張りだした。京都大学工学部や名古屋大学医学部、岐阜大学医学部の合格者の氏名も張りだしてあるけれど、ごめん、滝野瀬の発案もあって彼女の名前と合格通知書を一番てっぺんに張り出させてもらった。
みんなの受験に投入した努力と格闘が軽いものだと言うつもりはないよ。結果のいかんに関わらず、大学のランクにかかわらず、そこには一人ひとり、とても重いものが含まれている。みんな自分の壁と格闘していた。それはよくよく分かっているつもりです。でもね、それでもなお彼女の合格通知は私にとってもっとも重いもものだったから。
(高木敏行)
