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数学の学習について(連載 no.1)

数学の学習について思うところを連続的に書いてみたい。少々激しい言い方をすれば、このところ「学習のあり方がどこかで壊れている」というべき状態を数多く見るからだ。
 一般的に「勉強すればそれなりに学力はつく」と思われている。けれども「学習のあり方が壊れている」状態になるとそうはいかない。裏返せば、「学習しても学力が上がらない」という状態になっている場合が少なくない
 そうした状況と激しくたたかうようにして指導しているけれども、必ずしも勝ち切れない。大きな壁に突き当たっている感覚が強くある。それをいったん整理する必要があると思う。それはもう一度、私自身が直面していることがらの本質を可能なかぎりトータルに掴み出さないと指導が成立しないと思っているからだ。壁の正体をクリアにしないと、日々の指導で突き破れないと思っているからだ。
 そして生徒自身にとっても、自分が直面している壁の正体がつかめないからだ。

 生徒個々人の学習はそうとう大きな振れ幅があり、一様ではない。その振れ幅は、たぶん、各生徒が思っている以上にはるかに大きい。そして、上手く行っている場合もあればいかない場合もある。そうした中でどこかで「◯◯◯というやり方をすればいいと聞いた」とか「△△△の参考書がいいらしい」とかそういう話が舞い込んでくる。それでうまくいくことも当然あるけれども、そうはいかないことも少なくない。
 たとえばスポーツで、仮に水泳で一定のタイムを出そうとしたとき、「あの人は筋トレをしたら爆発的にタイムが伸びた」ときいてもそれが自分に適合する方法なのかどうかはわからない。一つには同じ問題点にt直面しているのかどうかわからないからだ。筋力はあるけれども、フォームがでたらめなのかもしれない。瞬発力ではなく、持久力が足りないのかもしれない。その問題点を解決する方法を考えなければいけない。さらに、その人は、筋トレ以外にもトレーニングをしていただろうから、そうした全体の中で筋トレが一つの成果につながったということのはずだ。けれどもこういう話はどうしても「筋トレをしたら上手く行った」みたいな部分だけがクローズアップされて伝わりがちになる。それも上手くはいかないだろう。いずれにしても誰かが上手く行った方法をそのまま導入してもたいていうまく行かないことは多い。
 だから、考えるべきことは「その人の課題がどこにあるのか。その解決のためには何が必要なのかjということになる。そのため私は正反対のことを言うこともある。ある生徒には「手を動かせ」ということがある。他の生徒には「すぐに手を動かすな」ということもある。「問題をじっくり読め」ということもあれば「問題をじっと読んでばかりいてもダメだ」ということもある。
 それは数学というものの力をつけるということがどういうことか、そのための「この生徒」の課題はどこにあるのか、ということを踏まえての指導になるけれども、うまくいかないことも多い。
 指導力の未熟さ、といえば身も蓋もないけれども、確かにその一言に集約されることではあるけれども、その内容の一部は、「課題はなにか」という点についてなかなか一致しないということにある。たとえば先のスポーツの例で言えば「筋力が低いという課題が大きい」と思っていない選手に「筋トレをやれ」と言ったところで、多分、その指導はうまくいかない。本人が納得していない指導はたいてい、大した結果を生みださない。

 生徒と講師が「課題と対策」の基本的な内容で一致していなければいけないけれども、ここが簡単に行かないケースが目立ってきている。
 そしてその一つの原因は、【数学のちから】というものについての認識の隔たりにある。これだけではないけれども、このことはかなり大きな問題だと思う。別の言い方をすれば、数学が要求していることが、はっきりとは掴まれておらず、したがって自分の課題がどこにあるのかを知ることができない状態にある場合が多いということだ。スポーツでも日々の練習や試合から自分自身の課題を深くつかみとり、その自覚を持って練習をするかしないかで大きくその後が変わってくることは自明だと思うけれども、それは学習においても同じことだ。

 だから、以下の様なことを是非お願いしたい。
1) 数学の力というものがどういうものなのか、あらためて考えてほしい。
 いわばこの点についての理論的考察とでも言うべきものがもっとあってしかるべきだと思う。これがなければ自分の課題は対象として把握することは基本的にできないのです。
2) 上手くいったときの感覚を忘れないでほしい。それを宝庫だ。そこにさまざまなカギが隠されている。それを可能なかぎり深く分析し、捉えてほしい。そしてその感覚を追い求めてほしい。そこには点数に還元できない大きなものがある。
3) 最後に、もっともっと失敗から多くを学び取ってほしい。
 とても多くの生徒が失敗から目を背けようとする。ちょっとしたミスで片付けようとする。そうではないのです。


 試験でも日日の演習でも問題を解くことは多い。
 学力一般にも言えるけれども、テストの点数は必ずしもその教科の力を、特に現在の力を反映しているわけではない。その力は、個々の生徒の内部に存在しているもので、外部から物差しで測ることができるのかと聞かれると大きな疑問が残る。2004年に東北大学でセンター試験の点数と2次試験の点数の関係の追跡調査を行った。
 結論は、ほとんど無関係。
 英語などの外国語はセンター試験と2次試験の結果について一定の相関関係があるとのことだったが、数学については相関関係は極めてうすいとのこと。
 別の言い方をすれば、センター試験で「測定される数学力」と2次試験でのそれが異なっているということになる。
 少なくともはっきりしていることは、一つの問題、一つのテストでその人の数学力が全面的にあらわれてくるわけではないということだ。けれども何も現れてこないというわけでもない。
 だから演習で問題を解くということは、少なくとも二つの側面がある。一つは、それを通して、数学的な何かを理解し、運用する力をつけること、もうひとつは、その演習を通して自分自身がさらけ出されるということ。自分自身の内部にある掴み難い数学力の一端が、その演習を通して外部にあらわれてくる。だからそこをつかみとってほしい。外部に現れてきた君たち自身をよく見つめてほしい。その深さが学習の質を大きく決定するのです。それは「言われたから解き直しはした」とか、「一応、間違った問題は解けるようにした」ということだけに還元されないことだ。それらは全体のごく一部分に過ぎない。そういう切り縮め方をしてはいけない。
 大切に、大切に演習をしてほしい。そして直してほしい。解き方を覚えるというよりは、自分のなかにある知識の不足、誤解、曖昧さ、不足している技術、狭い観点、論理力の弱さ、特に厳密な論理を構築する力、複合的な論理を操作する力の不足、また論理への無頓着、分析力の不足、計算力の不足、あるいは重たい計算を貫徹する力の不足、さらにはすぐに問題を侮るような傲慢さ…さまざまな課題がそこに顔を出している。それがいまの君の姿なのだから、丁寧に、できるだけ丁寧に解きほぐし、解決するためにどうするのか、考え、実行してほしい。

 以下、数学の力について、演習方法について、さまざまなケーススタディを書いていこうと思っています。順番は臨機応変に変えます。ずっと理屈だけ書いているときっと読まないだろうから。とりあえず書けるだけ書きます。
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