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豊田利幸教授の第1回講義のことを書いた。
講義の内容について少し書いておきたい。
教養課程の力学の講義だった。その時にガリレオに触れたことがある。彼の「落下距離が落下時間の2乗に比例する」という発見をどのような実験で実証していったかということが述べられた。
Wikipediaによれば、「ガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。」とのことである。
ガリレオの実験を豊田教授は概略以下のように説明したと記憶している。
「ガリレオの実験は、斜めのレールに鈴が付いたゲートをつけて、そこを球体を転がした。つまりゲートを通るときに音が出るわけだ。そしてそのゲートを、音が等間隔で鳴るようにずらせていった。その結果、ゲートは下に行くほどの間隔が広くなった。それを実測して上記の比例関係を実証したということだった。」
言うならば、第1のゲートと第2のゲートとを通った時に鳴る音の間隔が単位時間になり、それを基準にして時間を刻んでいく。はっきりと捉えられない時間というものを、ゲートの間隔という空間的な物差しに置き換える実験だった。
「この当時、貴族の世界では音楽が大切な教養のようになっていた。耳は鍛えられている。実際にある程度の実験誤差はでるが、かなり正確な実験であった」と述べられていたと思う。
このあと彼が話した内容が私の内部に響き続けるものとなった。
Pr.豊田「諸君らは物理の教科書などで、この落体の運動がストロボの連続写真で説明されているのを見たことがありませんか?」
学生「あります」
Pr.豊田「確かにあの連続写真は、落体の運動を視覚的に分かりやすく説明してます。けれども皆さんの中で、ストロボが一定の時間で等間隔に光っていることを確認した人はいますか? いないと思います。教科書を執筆している先生にもいないのではないか。ガリレオは違いました。多少の誤差はあるけれども、ガリレオは人間の耳という五感に訴えた。つまり人間の感覚に直接訴えた。これが大切なことなのです。科学は最終的に人間に帰着しなくてはいけないのです。ストロボというのような機械に、自分で確かめることなく、誰が確認したのか分からないようなものに依拠してしまってはいけないのです。何かの権威に寄りかかって、無批判にそれを信じるところに科学は存在しないのです。誰かがストロボをいじったら実験結果は全く違ったものになってしまうのだから。」
このときの講義を聞いた学生の中で何人が彼の言葉を覚えているかどうか分からない。けれども、少なくとも私にはある種のインパクトを残した。その時は印象的というだけだったが、徐々にその言葉は力を持っていったと思う。
確かにその通りだと思う。
近代科学は巨大に成長した。しかし、その根っこの根っこには人間が厳然と存在しないといけないのだということだと思う。これが素粒子を研究し、理論物理を学び研究してきた学者の口から語られている。彼は人間と自然の関係の中にもう一度、物理をしっかりと位置付け直そうとしていたのだろうと思う。またそのパースペクティブの中で科学を捉えようとしていたのだと思う。
さて、ここで先日書いた「ラテン語もある程度読める物理学者」と言うことに戻ります。
ガリレオの主著の一つでもある「天文対話」は「俗語」で書かれたが、「レ・メカニケ」の原典はラテン語だと思う。フランス語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語などのもとになるイタリアの古語。それをわざわざ学んだのだと思う。
とてつもないエネルギーだと思う。
そのことを思った瞬間、豊田氏は翻訳でしか読めない自分を認めなかったのだと感じた。つまり「(翻訳というような)何かの権威に寄りかかって、無批判にそれを信じるところに科学は存在しない」ということだったのだと思う。なんという首尾一貫した人生だろうと思う。嘆息して我が身を省みてしまう。
単純なことだ。
自分の目と、自分の耳とで、自分の五感と自分の直観で対象を、物事を捉え、自分で思考し抜く。とてもとてもシンプルなことだ。けれどもそれを徹底していくことは想像をはるかに超えて困難なことだ。
私は、特に理系の生徒には公式というものは自分で導出しろ、と要求する。間違いは自分で探せと要求する。物理では、自分で現象をイメージし、図に描き、グラフにし、そこから立式し公式と呼ばれるものまでたどりつけることを求める。例えそれが参考書に書いてあったとしても、自分で導出することを求めたりする。自力で解決しようとしないでもってきた質問は突き返したりする。
それは恐らく、豊田教授から学んだことなのだろうと思う。まぁ彼の域には到底及ばないけれど、私も自分で確認しなかった定理や公式は使うと気持ち悪い。とても生き方にまで徹底してはいないけどね。
でもきっとそれが数学や物理やそれ以外の理科=自然科学を学ぶ基本的な態度なのだと思う。学ぶと言うことはこういうことなのだと思う。そして自分で、ある意味では自分自身にとっての発見として法則や、定理、公式を捉えたとき、その定理や公式を考え出した、法則を見いだした人たちを「すごいなぁ」と思えるのだろうと思う。「すごいなぁ」と思ったとき、君たちはきっと500年の時間をこえてガリレオの隣に立っているのだと思う。
(なぜ学問的な書物が当時、ラテン語で書かれたのか、そしてなぜガリレオが異端審問にかけられ軟禁生活となったのか、ということについては『16世紀文化革命』(山本義隆)の「ヨーロッパにおける言語革命」の章で詳しく述べられています)
(高木)