全体にかかわることではないのだけれども、あまりにも驚いたので、書いてしまいます。
先ほど(昼休み)、今年、京大を受験している生徒から一報が入った。
驚いたことに、今年の京都大学の国語の第一問は林達夫の「文章について」が出題されたとのこと。この文章は1988年に一度出題されている。フランスのアランやポール・ヴァレリーなどのモラリストに通じる林達夫は扇動的で感情に訴えるようなある種の美文を忌避する。その立場から「散文」に求められるものを書き記した文章だ。渡辺一夫などとならんで、戦前の、戦争に向かってゆく「熱狂」の中に身をおき、多くの知識人たちの転身を横目で見ながら、決して戦争に翼賛する文章をかかず、覚めた理性を保ち続けようとした林達夫の文章への考えがストレートに現れていると思う。
その文章が、過去に出題されたときのまま、しかも設問も(1)と(2)も同じまま出題されたとのことだった。
京都大学の現代文はある種の匂いがある。京都大学らしい文章というのが確かにある。だから東京大学の現代文と過去25年の筆者を比較すると見事に一人も重なっていない。偶然なのか、意地の張り合いなのかわからないが、とにかくそうなっている。
個別指導の中でも、渡辺一夫、柳田國男、柳宗悦、森鴎外、寺田寅彦、下村寅太郎、西田幾多郎などの文章を扱ってきた。他の大学の現代文の出題ではめったにお目にかからないメンバーだと思う。明治期を含めて戦前の文章が多く、非常に濃密で入り組んでいる。社会科学的な、あるいは哲学的な、抽象的な概念を駆使して、言葉は難しいがすっきりと論理的に構築された文章というよりも、随筆風で、日常的に使う言葉に独特の奥行きを持たせるような筆者たちがそろっている。しかも、それがただその時の印象を述べたということではなく、日常的な言葉づかいの奥に極めて強靭な論理が貫かれている。そうした文章の書き手たちだ。一筋縄ではゆかない。
そんな筆者たちの文章を見ていると、京都大学は、「さぁ、かかっておいで。この言葉の奥に、君はどこまで入って行けますか? 筆者の見つめているものを君たちは見ることができますか?」と聞いているような気がする。
センター試験が終わってからも継続して、京都大学らしい文章をピックアップして演習していた。
林達夫は一回しか出ていないけれども、渡辺一夫とならんで京都大学らしい空気が漂っていたので、個別指導の演習でも扱った。
それがそのまま出た。
東工大の2007年の特別入試な数学で1993年の前期の問題がほぼそのまま(文章中の助詞がかわっただけ)出たことがある。数学では過去問とほぼそのままということは有り得ないではない気がする。けれども、現代文で自分の大学がだした問題文をそのまま使うことがあるのだろうか? しかも京都大学などで。
(東工大の特別入試は数学が2時間半でたった2問という強烈もの。それが2コマある。5時間で4問!)
理系の受験生としては現代文1題の出来で合否が決定的に左右されるということではないけれども、まぁ運がいいといえば、運がいい。京大の25年分の過去問をそれほどたくさん扱ったわけではなかったから。
しかし、と思う。
京都大学の問題ですよ。これでいいのですか? こんなことでいいのだろうか?
(高木)
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